2011/08/26

絶対音楽と物語


一般的に、絶対音楽とは、音を組み立てて音楽をつくることを目的とした音楽で、表題音楽とは、風景、人物、物語や作曲者の人生における出来事を音で表現しようとする音楽、と考えられている。絶対音楽の例として、多くの副題のない交響曲やソナタなど、そして表題音楽の例としては、ベルリオーズの幻想交響曲、リムスキー=コルサコフのシェヘラザードなどがあげられる。そして、多くの人が、絶対音楽には、表題音楽のような物語性を持たすべきではなく、音楽そのものの形式美や、音楽そのものの芸術性を追求すべきと思っているのではないだろうか。これは、ある意味において正しいが、それだけが絶対音楽を演奏するにおいての考え方ではない。私はここで、あえて提唱するが、物語性のない交響曲や、極端な話バッハの無伴奏ソナタなどの絶対音楽にも、演奏者なりの物語をこじつけて音楽にしたらよい。その理由として、
  • 絶対音楽を絶対音楽として演奏することは、まずもって小難しく漠然としすぎているということ。
  • 聞く方もそれなりの絶対音楽、音楽史などの知識、そして様式美をわかる知識とセンスが必要であること。
  • 我々現代人が日常聴く音楽は、ポップス・歌謡曲なども含めて、ほとんどがロマン派的表題音楽の部類に含まれており、そういった音楽のほうが理解しやすく、より現代人の心に響く。(皆が好きなベートーヴェンは古典派だが、人気のある後期の交響曲はすでにロマン派に入っている。)
  • バッハやモーツァルト、ヴィヴァルディといえども、人間である以上、ロマン的感情はあるはずで、そういった感情が彼らの音楽に反映されていないとは、誰も断定できない
などがあげられる。

しかしもっと大事なことは、演奏者(指揮者と奏者)自身が、具体的に何かを表現しようとして、一体何を表現するのかということ。演奏者各人が、自分なりに交響曲全体で何を言いたいのか、伝えたいのか、頭の中で、あるいは心の中で明確になっているか。絶対音楽的形式美などは、古典派や多くのロマン派の曲を演奏するにおいて、指揮者としては理解しておく必要はあると思うが、それだけで演奏者として自ら納得できる演奏にはなり得ないと私は思う。特にアマチュアである以上、自分たちが選んだ曲を自分たちなりに表現する自由がある。それがアマチュア音楽の醍醐味でもあるはずだ。ベートーヴェンを音楽学的に研究することが目的ではないはずで、そういったことはすでに多くの研究者が行っており、ベーレンライターの新原典版などの楽譜の校正などに反映されている。そして私達はそれを使うことができる。

私はあえて提案するが、演奏する曲、特に長い交響曲に具体的な映像となる人生経験における特定の場面、テレビで見た風景などをあてはめてほしい。できれば一曲全体を一つの物語とするのが望ましい。それは作曲者の伝記から読み取った作曲者の人生でもかまわないし、自分の人生におけることでもかまわない。指揮者なら、自分の心にその物語を秘めておき、それを軸に音楽を組み立てれば、奏者が納得のゆく、音楽的リーダーシップ発揮の助けになるはずだ。物語を話として奏者に伝えずとも、具体性のある物語であれば、自ずとそれが軸となり、長い長い交響曲に一本の筋が通って均整のとれた音楽となる。しかし、漠然とした物語では説得力のある音楽作りの助けにはなり得ない。

私の高校のブラスバンドでは夏のコンクールで演奏する曲につける物語を部員全員が各自考え、発表し、皆が納得する物語を皆で選んだ。その時を境に、音楽が一つにまとまったのを今でもはっきりと覚えている。

音楽に物語をもたせることは、音楽の一つの側面である「自己表現」を上手にするための一つの手段である。また何事にも目的を明確にするということからも、有用な手段である。

この方法を三木室内管弦楽団の演奏会の場で実践した。シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」に創作童話「ソフィーの不思議な旅」をつけ、各楽章の前にその楽章に相当するお話の部分の朗読を挿入した。この童話は本来のシューベルトの4番とは全く関係のない話ではあるが、音楽の流れにはぴったりの物語であり、話を聞くと音楽がそのように聞こえてくる。実際これは大成功で、普段なら子供たちがガヤガヤしている演奏会も、このときばかりはしーんと静まりかえり、みな集中して聞いていた。ただし、本当にシューベルトのこの曲を楽しみにしている人には不評ではあったが。。。まあ、これは極端な例であるが。。。演奏の拙さを補う方法としてもアマチュアとしては一考の価値ありだと思う。

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