2011/08/26

原典版を使う難しさ


最近は「原典版」を使うのが世の流行である。Barenreiter、Breitkopf & Hartel、Henleなどの出版社は、作曲者直筆の楽譜や初演に使った印刷譜、手紙などを研究しつくして、原典版とうたって新しく出版している。これら「原典版」には一長一短がある。

その長所は、作曲者が書いたそのものに最も忠実であり、第三者による写譜のミス、印刷ミス、有名な演奏家による書き加えなどが排除されている(はず)であること。つまりその分、演奏者は作曲者の意図に近づけるのだが、はたして本当にそうであろうか。特にアマチュアにとってはどうだろうか。



私の勝手な想像であるが、たとえばウィーンフィルなどでは、モーツァルトなどの作曲者と一緒に演奏した人、そしてその人と一緒に演奏した人、そしてまたその人と一緒に演奏した人、、、などと音そのもので作曲者の意図が伝承されているはずである。当然、これら歴史のあるオケ所蔵の楽譜にはそれ相応の書き込みがあるであろうし、ないとしてもオーケストラ一人一人の血となり肉となってうけつがれている。それゆえ、彼らにとっては「原典版」の新しい印刷譜は、きれいな楽譜という意味だけでも好都合であり、そこへこれまでの歴史の蓄積を必要なものだけチョイスして書き込める利点もある。

一方、これら「生きた伝承」のないオーケストラ、特にアマチュアではどうか。「原典版」を使うには、逆に最も多大な下調べなどの労力を必要とする。モーツァルトやハイドンなどはその最たるもので、楽譜にはまさに何も書かれていない。スタカートの有無、スラーの切れ目、強弱、どれもそのまま鵜呑みにしていては行き先を完全に見誤る。楽譜が真っ黒になるくらい、いろいろな表情記号、強弱記号、アゴーギグ(テンポのゆらぎ)などをを書き込んで丁度よいくらいだ。では、どうやって正しい方向に作っていくか。プロと呼ばれる人、あるいはモーツァルト、ハイドンを普段から演奏している人から盗むこと。盗むとは教えてもらうことではない。教えてもらってわかるものではないから。同様にCDを分析的に聞くこと。音楽に浸るのではなく、耳をそばだてて、たとえば一つの二分音符をどうやって弾いているか、クレッシェンドぎみなのか、真ん中を膨らますのか、表情はどうか、よく聞くこと。そしていろんなパターンを覚え、こういうパターンは、ここはスタカートだとか、こういうスラーはここで切るとか、そういった感覚を身につけなければならない。原典版を使うのはそれだけ難しいのである。アマチュアでは「楽譜に書かれていないが当たり前」のことを発見するのにいかに莫大な時間を費やしているか。。。

最後に余談だが、私が指揮をしている三木室内管弦楽団ではできるだけ原譜に書き込みをしてもらい、不足部数を補うためのコピー譜も演奏会終了後には回収する。それらの書き込みこそが楽団の将来に備える資産、成長の鍵であると考えているからである。

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