2011/08/26

心の奥底をえぐりだそう

名曲はいつ生まれるのか。詩を考えてみればわかる。人は、幸せであるとき、それに気づかず、なんとなく生きている。自分が幸せでないと思ったとき、つまり失恋や別れに直面したとき、自分を深く見つめ、自分の心の真底まで深く掘り下げ、血のにじむほどに中身をえぐりだし、それを見つめなおし、過去を振り返る中で、いろんな気持ちになったことを思い出し、反省したり、後悔したり、泣いたり、将来の自分の姿に思いをめぐらせ、期待したり、興奮したり。そういうふうに、深く重く考えて、心と頭の中を整理するとき、はじめて聞くものの心に届く詩が生まれるのではないだろうか。だから、幸せを描いた詩は数少なく、失恋や別れの詩が世に多く存在する。そして、それらが人に感動を与えるのは、それを作った人が、本当に悩みぬいたから、そしてそれを美しい言葉や旋律で解決しようとするからだ。

しかし、どう感じるかは聞く人によってまちまちのはずだ。つまり作った人の心の中の全てを正確に人に伝えることは不可能だから。なぜなら、どんなに深く理解しているつもりの恋人、家族、友人でも、ちょっとした言葉の取り違えで誤解を生じたり、すれ違ったりする。誤解は解消できるものもあれば、永遠にできないものもある。誤解が解消されていないのに、それにすらお互いに気づかず、本当に理解し会えていないことに気づかないこともある。それほど人を理解することは簡単なことではない。

私にポピュラー音楽を薦め、詩の素晴らしさを最近教えてくれた友人は、歌のことを「言葉と声色の魔法」と呼んだ。「なるほど」と思った。そして宇多田ヒカルやケミストリーなどの詩に感動した。言葉のある音楽はまだ理解しやすい。が、それでも、気持ちの伝わる詩は、やはりすばらしい作品であり、歌手もすばらしいからだ。同じ歌でも、ただ歌詞を読みながらカラオケで歌っても、なんの感動も伝わらないことは、誰でも知っているはずだ。それは、歌詞が訴えようとしている心の底の部分にまで歌い手の心が到達していないからに他ならない。

歌詞のないオーケストラ音楽などは、これに輪をかけてさらに難しい。音楽はどこから生まれてくるのか。心の奥底から生まれてくる。特に現代に生き残るクラシックの名曲は、特に心を削って、奥底をえぐりだして誕生したものばかりだ。それはたとえ交響曲やソナタなどの絶対音楽であっても例外ではない。だから、作曲家の伝記や解説書を読んだだけで、その音楽の意図するものの1%もわかるかどうかあやしいものだ。大切なのは、作曲者が曲を書いたときの心境をどれだけ深く、頭で理解し、心で感じれるか。どこまで自分に照らし合わせて自分の音楽、自分なりの言葉として消化できるか。つまり自分の心の奥底をえぐり出すことができるかだ。そして、楽譜にかかれている全ての音符ひとつづつ、そして音符と音符の隙間にまで、入りきらないほどの思いを詰め込んでほしい。そのくらいしなければ、人に聞いてもらう意味がない。自分でCDを聞いて感動したそのままの気持ちで演奏しても、絶対に聞いている人には何も伝わらない。

指揮者チョン・ミュンフンは言っている。「音符を根っこから掘り起こせ」と。まさにその通りだ。音符の頭をなでているだけでは、いくら国際コンクールに出れるレベルの演奏技術をもってしても、心に響く音楽にはなり得ない。私は、演奏技術と表現したい心は、まったく別のものだと信じている。そして、技術は達者でも魂の入っていない演奏を聞くとがっかりする。特にそれが吹奏楽コンクールなどでの子供たちの演奏だったりすると、そういう音楽教育をした指導者に怒りを覚える。逆に、技術は未熟でも、何かを伝えたいという気持ちが伝わってくる演奏にめぐり合うと、心が温かくなる。そしてそういう人たちは、たとえゆっくりとでも技術を身につけ、将来かならずいい音楽を演奏できるようになるという希望が見える。表現したいという心からの欲求があるからこそ、技術を習得でき、音楽を奏でることができるが、技術をいくら習得しても表現の欲求がなければ音楽には絶対になり得ない。

現代人はいろいろと忙しすぎる。音楽をする人間の一人として、自分の心を見つめる時間を大切にしたい。

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