2011/12/03

2011/09/17

指揮者の条件

どうしたら指揮者になれるのか、という類の質問をよく受けます。これを話すといつも長くなるので、「指揮者に必要な資質」として私なりにまとめてみました。これはあくまでも私個人の経験といろいろな指揮者やオーケストラ奏者の意見を聞いて得た経験からのもので、他にも違った考えはあると思いますが、そう間違ってはいないと思います。

圧倒的な音楽性
指揮者が目指す音楽が魅力的でなければならない。オーケストラ一人一人がその魅力に取り憑かれて演奏することが望ましい。しかもそれが圧倒的でなければならない。オーケストラ奏者がどれだけ経験豊富なプロの演奏家であっても、指揮者は音楽を訴えかけ、皆を魅了することが必須である。魅力的な音楽は、後述するアナリーゼ能力などとは別に、指揮者自身の人生経験、社会経験、人間性、音楽以外の歴史や文化、特に多文化の理解によるところが大きい。また語学力は必須である。欧米の文献や人と交わらずにどうして欧米の遺産であるクラシック音楽を演奏できようか。

リーダーシップ
30人から100人の人間をまとめるに値するリーダーシップが必要。しかもアマチュア楽団の場合は、参加者それぞれの目的意識や価値観がバラバラであることも珍しくない。その人たちをまとめ、一つの方向へ導いていく力が必要。指揮者の特殊性は、自分自身の技術と音楽的能力でもってリードしていく部分。目指していること、命令が正しくても、それを伝える技術と音楽性を指揮者自身が持っていなければリーダーシップを発揮することはできない。「リーダーシップ」そのものについては、多々ある書籍等を参照されたし。

アナリーゼ能力
アナリーゼとは即ち楽曲の分析である。正しく分析し理解しているかどうかは、くみ上げていく音楽が正しいかどうかに直接関係する(アマチュアの間では間違った音楽はそこいらに氾濫している)し、最終的にできあがる音楽の魅力、芸術性、説得力に影響する。正しくアナリーゼできるかどうかは、基礎知識による。つまり、和声法、楽式論、対位法、オーケストレーション、さらに作曲家の人生や価値観、他の作品に対する理解、その作曲家の先輩、先生との関わりなど歴史の理解。各時代、各土地の民族音楽、民族文化の理解なども非常に重要である。

聴力
自分の頭の中で鳴っている理想の音と、実際に鳴っている音を常に比べ、その違いを是正する能力のことを言う。オーケストラの間違ったテンポ感に引きずられず是正できるか、歌い方が違っていればすぐに指摘できるかなどの能力である。

バトンテクニック
流派はなんであれ基礎をマスターしていることは言うまでもないが、弦楽器、管楽器、打楽器、時にはコーラスに対する指揮法を身につけていなければならない。特にソリストを伴う楽曲(協奏曲など)は、ソロの速い細かい音符をすべて聞き分けたり、ソリストのテンポの揺れを汲み取ってそれにオーケストラを合わさせるなど、幅広いバトンテクニックが試される。

語彙力、説得力
指揮者は指揮棒で音楽を示すのが第一であるのは間違いないが、それでも通じないときは多い。その場合、言葉でどこまでイメージを膨らませられるかが重要となる。

速読譜力
指揮者は楽曲の練習に取りかかる前に暗譜していることが望ましいが、練習中に止めてオーケストラに指摘する場合等、素早くその部分のスコアを読む能力が求められる。

暗譜能力
指揮とはオーケストラ奏者一人一人とのコミュニケーションを通して、奏者一人一人の持っている多様の音楽を一体化させていく作業である。そのため、奏者とのアイコンタクトは指揮の動作の中でももっとも重要な要素である。場合によってはバトンテクニック以上に重要になる。暗譜するということは、直接アイコンタクトの時間を増やすことにつながることは言うまでもない。

演奏会とは何か?

中学や高校の吹奏楽だと、たいていは夏の吹奏楽コンクールには出るのが当たり前で、ほとんどの人はそこに疑問を持たないだろう。冬のアンサンブルコンテストもそれに近いものがある。アマチュアオーケストラを対象としたコンクールはないが、そのかわりに大学のオーケストラはたいてい年に2回演奏会をやるのではないだろうか。なぜ演奏会をするのだろうか。それが毎年やっていることで当たり前だから?ここでは、演奏会をすることの意味について、また演奏会と発表会、コンクールの違いについても検証し、演奏会はどうあるべきか、どういう姿勢で臨むべきかについてまとめてみたいと思う。

演奏会とは観客のために音楽を生で演奏するイベントである。重要なのは「観客のために」であって、演奏者の自己満足のためにではない。大人の音楽団体でも、演奏会の目的が「自分の楽しみでやっているのだから自分が楽しめたらそれで良い」というようなこと、あるいは「一生懸命やったことを本番で試す場」などと正々堂々と発言する人を時々見かける。問題は、この考え方の根底にあるのは前者は「発表会」と同じ発想であり、後者は「コンクール」と同じ発想だからである。社会に出てからもオーケストラなどで音楽を続けていくであろう学生諸君には、いまのうちに「演奏会」の意味と責任を理解し、それを実際の演奏会を通してよく考え実践してほしい。

まず第一に、「お客様第一」であること。大抵の学生オーケストラの演奏会は、一般にチラシを配っているだろう。楽器屋さんなどにチラシを置かしてもらっているだろうし、ポスターも掲示しているだろう。確かにお客さんの大部分は演奏する学生の直接の知り合いだろうが、このように一般大衆向けに広告している以上「演奏会」として「お客様第一」を考え実践しなければならない。

第二に、「音楽が主役」でなければならない。ホールという空間に音楽を作り上げそれを観客にとどけ、一緒に感動する。それが演奏会である。当然のことだが、演奏者が感動していなければ、観客が感動するはずはない。しかし、それが自己満足だけの感動であっては「発表会」の域を出ない。その違いは何だろうか? 誰でも話をしていて、相手に通じているか通じていないかはわかるだろう。自分が面白い、あるいは感動した、あるいは悲しい話や、興奮した経験を話すとき、相手も同じように悲しんでくれるか、興奮してくれているか、わかるだろう。相手が自分の話に共感したとき、その時は「話の内容が主役」になっている状態である。「話し手が主役」ではない。音楽もそれと同じだ。誰か1人のために演奏したことがあるだろうか?自分の思っている気持が相手に伝わっただろうか?簡単なことではないですね?演奏会となると、さらに難しい。お客さんは何百といるのだから。でも一つだけ言えることは、自分しか見えていない、あるいは自分たちのオーケストラの中でしかコミュニケーションをしていない演奏と、観客に何かを伝えようと全員が思って演奏する演奏には、明らかな違いがあるということ。話を聞いてくれる人に話の内容をわかってもらおうという謙虚な姿勢、そして相手の気持を受け止める真摯な態度が必要ということと同じことだ。音楽で気持を伝えようとすること。そして客席でどう思ってくれているのか汲み取って演奏すること。演奏会で音楽を聞いてもらうというのはそういうことだ。

もう少し別の視点から見てみよう。逆に「発表会」とは何か?「発表会」とは自分がいままで練習して来たことを「一生懸命練習して上手になったでしょ?ほら?聞いてよ」と発表する場である。主役は演奏者であって音楽ではない。あるいはお客はいてもいなくてもかまわないかもしれない。「舞台経験」を積むという意味ではお客はいたほうがいいが、それも演奏者主体の考え方だ。音楽が主役ではない。聴く側の人も、自分の子どもや知人が「どれだけうまく舞台で演奏するか」や「他の生徒と比べてうちの子どもはどうなのか」が関心事であって、音楽そのもので感動したい、ということが第一ではないだろう。しかも通常、発表会は演奏者の家族くらいにしか案内状は配られない。

では、コンクールとは何か?少なくとも私が中学高校と関わってきた吹奏楽コンクールでは、音楽の最も重要な部分、人に感動を伝えられるかどうか、ということが審査の対象になっていない。音程があっているか、音が出ているか、揃っているか、楽曲として組み立てられているか、などしか審査の対象になっていない。つまり、こじんまりとしていても上手に演奏するほうが、大胆で音をはずすかもしれないような危険を冒しても何かを表現しようとする演奏よりは評価される。スポーツと同じ感覚だったら吹奏楽コンクールはある意味その役割を果たしている。しかし吹奏楽人口がこれだけいても、一生音楽を続ける人が以外と少ない原因がどこにあるかと言えば、コンクール重視の中高時代の音楽環境に問題があると私は思う。

簡単に3つの比較をまとめると、発表会は「演奏者」が主役であって、演奏者がどういう音楽を演奏しようが、舞台に立つことが目的で、見る人は、舞台に立つ自分の子どもを見ることが目的である。コンクールは、審査員に良い点をもらい勝つことが目的で、言ってみれば審査員以外の観客が音楽で感動したかどうかは関係ない。一方、演奏会は「音楽」が主役でありそれを観客に伝えることが目的でなければならない。

「演奏会」に来る人たちは、音楽そのものに期待してホールに来ているはずだ。もちろん、アマチュアの演奏会には、自分の家族や知り合いだから、という理由で来ている、ある意味「発表会」と同じ状態の観客もいるだろう。しかし通常アマチュアでも演奏会は、不特定多数の人の目にとまるよう、チラシやポスターをあちこちに設置している。それを目にする受け手側からすれば、期待を膨らませて演奏会そのものを楽しみたいと期待して来る。そういう意味で「発表会」とは全く違う。発信する側と受ける側がそろって初めて成り立つのが演奏会だ。その演奏会で、観客の期待を裏切ってしまえば、その観客は次の演奏会にはまず来てくれないだろう。そういう意味で、無料であろうが有料であろうが、「アマチュアだから」という甘えは許されない。演奏が観客に評価されることが、後輩に対する責任であり、自分たちのオーケストラの存在価値そのものを問うていることである。単純に計算すればわかることだが、例えば演奏会で使うホールが1000人収容できるとする。あなたのオーケストラがある地域の中で音楽に興味のある人口が1万人であったとする。1回の演奏会で「このオケはもういい」と思われたら、次の演奏会に来る可能性のある人口は9000人に減っていることになる。そういうことをつづけていれば、だんだんと来てくれる人は少なくなる。ぜひともその逆のポジティブな波に乗ってもらいたい。あなたの演奏を聞いた人が、次に演奏会に来るときには、知人を誘ってくるというようなポジティブな波に。

最後にもう一度。演奏会は「お客様第一」であり音楽が主役の場である。自分が主役ではない。あくまでも音楽を観客と共有し共に感動する場でなければならない。オーケストラ全員がこれを腹でわかっていて実践できればきっといい演奏会になるはず。

追記:こちらの新しい記事ではマーケティングの視点からまとめてみました。

ホールという大空間で成功するための練習


大抵のオーケストラは、普段の練習を音楽室やリハーサル室など、オーケストラが入ればそれだけで部屋いっぱいという狭い空間で練習している。しかし本番のホールの舞台に乗れば、音で満たすべく空間容積は普段の練習場所の数倍から時には10倍以上となる。ここで問題になってくるのが、1) 一人ひとりが音を遠くへ届かせることと 2) 目で確認して合わせること、の2点である。

音程感覚を身につける


音を物理的に表現したときの4つのパラメーター、基準周波数(音程)、波形(倍音構成)、エネルギー(強弱)及びその時間変化(発音、余韻など)のうち、心地よい音楽を聴いてもらうために何が最も重要かというと、それはおそらく音程であろう。音程がとれていないソロもたいがいだが、音程が合っていない合奏ほど聞いているものにストレスを与えるものはない。つまり音程の合っていない演奏は苦痛だということ。他方、その他のパラメーター、倍音構成つまり音色や、強弱、発音・余韻などが多少ダメでも、ハーモニーさえ合っていれば、かなり聞き心地はよい。音程は訓練すればきちんと取れるようになる。あきらめないで練習することが肝心。

ほとんどの技術は努力で得られる

奏者にとって、練習量・努力によって克服できることと、そうではなく才能・センス・耳が関係することとの違いを知っておく必要があります。そして前者については、「来週までに出来るようにしておいて下さい」等と奏者に対しては厳しく臨むべきです。また「練習次第で出来ることなのだ」と励ましてやることも大切です。後者については、地道にその奏者、あるいはパートと一緒に取り組んで行くという姿勢を示すことが大切です。多くの人が「自分にはセンスがないから無理だ」と思っていることが、実は努力によって誰でもが克服できることが多いのです。その例は多くあり、速いパッセージ、音をはずさないこと、正しいリズム、一定のテンポ、音程、ハーモニー、読譜力、周りを聴いて合わせること等まだまだありますが、オーケストラで音楽をつくっていく技術のほとんどが、努力によって得られるものであることを知っておいて欲しいものです。しかも脳科学の見地から、これらは大人になってからも可能であることが実証されています(天才はいない)。

2011/09/16

チューナーは両刃の剣

技術が進歩し、いろいろと便利な道具が手に入る次代、オーケストラの世界もまた例外ではない。その一つにチューナーに接続するピックアップがある。管楽器だろうが弦楽器だろうが、自分の楽器の適当なところにゴムのクリップを留めると、合奏の最中でも自分の音だけをチューナーが拾い、自分の音程を確認できるというすぐれもの。いろいろなオーケストラで最近は、合奏練習中にこれを常に使っている人を良く見かける(管楽器に多い)。確かに便利なのだが、私はこの使用方法には警鐘を鳴らしたい。絶対にやってはいけないことの一つと思う。

その理由はいろいろある。まず第一に、基準となる音程は常に変化していること。オーケストラでのハーモニーは純正調が基本である。したがって基本的な主和音、属和音、下属和音であっても、チューナーのど真ん中に合わせている様では美しいハーモニーは得られない。ましてや、古典派以降の音楽をするにあたっては、純正調の限界を超える複雑な和声が取り入れられているのだから、基準は常に変化している。基本的にはメロディーが綺麗につながるように、内声部はその音程を微調整しなくてはならない。つまり記譜上同じ音程でも、実際に演奏すべき音程は場所によって異なる。

第二に、アマチュアのレベルではさらに難しく、基準となる音程は、お互いに音程が悪い者同士で力比べをしているようなもので、大抵は音量の大きな楽器、音程が上ずっている楽器が基準となってしまい、多くの人がそこへ無意識のうちに合わせてゆく。だから自分だけチューナーを基準に「自分が正しい」と主張するのは、建設的でなく全く意味がない。その主張が効力を発揮するのは、唯一管楽器セクション全体が弦楽器セクションとずれてきた場合。弦楽器は常に開放弦という基準があるから、そこへあわせるのは正当な方法である。しかし、この場合もチューナーを基準にするのではなく、あくまでも耳で聞いて自分の音を弦楽器に合わせるべきである。そして自分が正しいと思っている音程で他の管楽器をリードしていくべきである。

最後に、こういうチューナーの使い方をしていると、いつまでたっても自分の耳で正しい音程をとることができない。「この人、いい音程で吹いているな」と思って、チューナー無しでデュエットなどをしてみると、自分自身で音程をとれていないことがすぐにわかる。私はこういった例を山ほど見てきた。

では、どうやって音感を訓練するか。チューナーは使い方さえ間違わなければ非常に有効な道具である。私が勧めるのは以下の練習方法。まずドの音をチューナーで合わせ、覚える。そこからチューナーを見ずに、スケールで一オクターブ上がり、そこでチューナーでドを確認する。やってみると意外と簡単ではないことがわかるはずだ。まず、これがきっちりとできなければならない。これができたら、一旦チューナーから離れて、ピアノを使う。ピアノのペダルを踏んでドを弾き、オクターブのスケールを自分の楽器でやってみる。ミ、ソ、ドがピアノのドにきちんとハモるかどうか、チェックする。同様にV7の和音、IVの和音もピアノで根音を鳴らしながらやってみる。ただし、知識として、この場合のIの和音以外の他の和音は、いわゆる純正調ではないことは知っておくべきである。なぜなら基準となるピアノがすでに12平均律でチューニングされているからである。これができるようになったなら、またチューナーを使ってみる。今度は、練習曲でもなんでもいいから、曲を吹きながら、時々チューナーに目をやる。自分の思っている音程が間違っていないかどうかを確認するのである。しょっちゅうチューナーを見て、いちいち合わせるのではなく、あくまでも、自分の耳で音程をとり、それがずれてきていないかどうか、時々チューナーで確認するのみに留めておくべきである。

最後に、私が音感を鍛えた方法をここに書いておく。私はエレクトーンで育ち、管楽器を、中程度のブラスバンド、オーケストラで吹いてきた。だから音感はあまり良くなかった。これを克服できたのは、弦楽器を徹底的に練習したからである。これは指揮者として、様々な弓使いをマスターすることが主目的であったが、音感を鍛えるのにも非常に有効である。単純なスケール練習だけで、スケールが開放弦に来たときに、自分の音程のずれを嫌というほど思い知らされた。これがきれいに弾けるようになる頃には、音感が身についていた。少しずつできるようになったというよりは、あるとき突然音程の感覚のコツを覚えた記憶がある。

合奏中も常にチューナーに頼っていては、この「突然の気づき」のような瞬間は決して訪れない。なぜなら、ハーモニーは正しくないか、正しいかという白か黒かの問題で、どの程度正しい音程からずれていて、どの程度まで正しくできるかという問題ではないからである。皆で作るハーモニーも、「徐々に良くしていこう」ではダメ。本当のいい響きを実感できなければ、いつまでたっても正しいハーモニーは生まれてこない。耳を使い完璧をめざそう。

脳を鍛える

以前から左脳は論理、言語、右脳は立体認識や芸術などに司っていることは知っていたが、最近それを意識的に鍛えることができるのではないかと思い始めた。理由はこうだ。私は小さい頃からエレクトーンで育った。ピアノと違いエレクトーンは、右手には早いパッセージが多くでてくるが、左手はもっぱら和音を使った伴奏である。その分左足を多用するが、足の指先を細かく使うわけではない。また、小さい頃から和声、カデンツァ、編曲、即興演奏などを習ったが、YAMAHAのカリキュラムかどうかは知らないが、もっぱらパターン化されたことを習った気がする。グレードアップ試験のための勉強であり、ある意味受験勉強に似ていた。

習うこと、学ぶこと

プロの音楽家にレッスンを受けることが、楽器上達への近道であることは、ほとんどの場合においてまず間違いない。しかし、そうではない場合もあるので、これからレッスンを受けようと思っている人は、自らを振り返り、以下のような勘違いをしていないか、よく考えてみてほしい。「自分で練習するより、習ったほうが楽に、簡単に、早く上達するだろう。」あるいは「自分の演奏は今ひとつ音楽的でないから、習ったらもっと音楽的になるだろう。」というような考えだけでレッスンについても、その効果は疑問である。漠然と「自分は下手だ」と自覚しているだけで、人から習っても、決して身につくものではない。それまでに自ら徹底的な研究・練習を繰り返し、壁にぶちあたり、自分の何が問題なのかをよく考え、それに挑戦し、それでも納得がいかない場合にのみ、教えてもらったことが、暗闇に差し込む一条の光のように思え、それが身につくのである。自らの努力なしに教えてもらって、その場でだけ分かってできるようになっても、それを維持していくことはまず無理である。それは、外国語を習得するのに、自らを日本語の通じない環境に置くことをせず、常に辞書に頼るようなものであり、自分で1冊の本を読むことをせず、人が書いた要約を読んで、1冊読んだ気になっているのと同じことである。なお、ここで言及していることは、プロの音楽家に習う場合のみならず、先輩に教えてもらう場合も同じであるし、数学や化学などありとあらゆる学問を習得するについても同様である。

演奏の三要素を理解し伸ばす


音楽を演奏するには、楽器奏者であれ、指揮者であれ、音楽的であること、自分の意志を人に伝えるということ、そして音を出す技術、の三つの要素がどれも必要不可欠です。どれも演奏するためには必要不可欠ですあり、上に挙げた順番に特に意味はありません。上手あるいは下手と一言でかたずけてしまわずに、自分自身の能力を客観的に分析し、何を伸ばす必要があるのかを正しく理解することが、上達への近道です。技術的上達度合い、精神面での成熟度、経験などによって、何が不足しているかは人それぞれです。以下にそれぞれの要素をいかに伸ばしていくか、私なりの経験をまとめてみました。

目標を知る


楽器が上手になるためには、目標を持たなければいけない。私は学生には二つの目標をもってほしいと思う。一つはCDなどで聞く一流の演奏家。二つ目は身近に聞くことのできる先輩、友達、先生など。一つ目の目標については、誰でももっていると思うのでここでは議論しない(もっていない人は論外)。では、なぜ身近な人を目標として持つべきかというと、それは実際の音の比較のためである。CDやコンサートホールの客席で聞く音は、いわゆる「聴く側の音」であって「出す側の音」ではない。「聴く側の音」を自分で出す音の目標におくことは、とんでもない間違いであり、アマチュア演奏家の多くがこの落とし穴にはまっている。では「出す側の音」とはどんなものか。

アンサンブルのすすめ


指揮者を含めオーケストラ奏者には、ぜひとも常日頃からアンサンブルに親しんでほしいと思います。二重奏から五重奏くらいまでのアンサンブルで息を合わせて気持ちの良い演奏ができないのなら、その奏者はオーケストラの中でいい演奏はできません。したがってオーケストラとして生き生きとした演奏はできません。なぜなのか説明しましょう。

2011/09/11

List of Works Conducted Other Orchestras

その他のオーケストラで、指揮をした曲のリスト(ただしカッコつきは演奏会本番の経験のないもので、プロ指揮者の下振りや後輩の指導などでの経験のもの)

List of works that I conducted other orchestras. In the parentheses are the ones that I did not go on stage but worked as assistant conductor or the trainer for young conductors and orchestra.

2011/08/26

心の奥底をえぐりだそう

名曲はいつ生まれるのか。詩を考えてみればわかる。人は、幸せであるとき、それに気づかず、なんとなく生きている。自分が幸せでないと思ったとき、つまり失恋や別れに直面したとき、自分を深く見つめ、自分の心の真底まで深く掘り下げ、血のにじむほどに中身をえぐりだし、それを見つめなおし、過去を振り返る中で、いろんな気持ちになったことを思い出し、反省したり、後悔したり、泣いたり、将来の自分の姿に思いをめぐらせ、期待したり、興奮したり。そういうふうに、深く重く考えて、心と頭の中を整理するとき、はじめて聞くものの心に届く詩が生まれるのではないだろうか。だから、幸せを描いた詩は数少なく、失恋や別れの詩が世に多く存在する。そして、それらが人に感動を与えるのは、それを作った人が、本当に悩みぬいたから、そしてそれを美しい言葉や旋律で解決しようとするからだ。

絶対音楽と物語


一般的に、絶対音楽とは、音を組み立てて音楽をつくることを目的とした音楽で、表題音楽とは、風景、人物、物語や作曲者の人生における出来事を音で表現しようとする音楽、と考えられている。絶対音楽の例として、多くの副題のない交響曲やソナタなど、そして表題音楽の例としては、ベルリオーズの幻想交響曲、リムスキー=コルサコフのシェヘラザードなどがあげられる。そして、多くの人が、絶対音楽には、表題音楽のような物語性を持たすべきではなく、音楽そのものの形式美や、音楽そのものの芸術性を追求すべきと思っているのではないだろうか。これは、ある意味において正しいが、それだけが絶対音楽を演奏するにおいての考え方ではない。私はここで、あえて提唱するが、物語性のない交響曲や、極端な話バッハの無伴奏ソナタなどの絶対音楽にも、演奏者なりの物語をこじつけて音楽にしたらよい。その理由として、
  • 絶対音楽を絶対音楽として演奏することは、まずもって小難しく漠然としすぎているということ。
  • 聞く方もそれなりの絶対音楽、音楽史などの知識、そして様式美をわかる知識とセンスが必要であること。
  • 我々現代人が日常聴く音楽は、ポップス・歌謡曲なども含めて、ほとんどがロマン派的表題音楽の部類に含まれており、そういった音楽のほうが理解しやすく、より現代人の心に響く。(皆が好きなベートーヴェンは古典派だが、人気のある後期の交響曲はすでにロマン派に入っている。)
  • バッハやモーツァルト、ヴィヴァルディといえども、人間である以上、ロマン的感情はあるはずで、そういった感情が彼らの音楽に反映されていないとは、誰も断定できない
などがあげられる。

しかしもっと大事なことは、演奏者(指揮者と奏者)自身が、具体的に何かを表現しようとして、一体何を表現するのかということ。演奏者各人が、自分なりに交響曲全体で何を言いたいのか、伝えたいのか、頭の中で、あるいは心の中で明確になっているか。絶対音楽的形式美などは、古典派や多くのロマン派の曲を演奏するにおいて、指揮者としては理解しておく必要はあると思うが、それだけで演奏者として自ら納得できる演奏にはなり得ないと私は思う。特にアマチュアである以上、自分たちが選んだ曲を自分たちなりに表現する自由がある。それがアマチュア音楽の醍醐味でもあるはずだ。ベートーヴェンを音楽学的に研究することが目的ではないはずで、そういったことはすでに多くの研究者が行っており、ベーレンライターの新原典版などの楽譜の校正などに反映されている。そして私達はそれを使うことができる。

私はあえて提案するが、演奏する曲、特に長い交響曲に具体的な映像となる人生経験における特定の場面、テレビで見た風景などをあてはめてほしい。できれば一曲全体を一つの物語とするのが望ましい。それは作曲者の伝記から読み取った作曲者の人生でもかまわないし、自分の人生におけることでもかまわない。指揮者なら、自分の心にその物語を秘めておき、それを軸に音楽を組み立てれば、奏者が納得のゆく、音楽的リーダーシップ発揮の助けになるはずだ。物語を話として奏者に伝えずとも、具体性のある物語であれば、自ずとそれが軸となり、長い長い交響曲に一本の筋が通って均整のとれた音楽となる。しかし、漠然とした物語では説得力のある音楽作りの助けにはなり得ない。

私の高校のブラスバンドでは夏のコンクールで演奏する曲につける物語を部員全員が各自考え、発表し、皆が納得する物語を皆で選んだ。その時を境に、音楽が一つにまとまったのを今でもはっきりと覚えている。

音楽に物語をもたせることは、音楽の一つの側面である「自己表現」を上手にするための一つの手段である。また何事にも目的を明確にするということからも、有用な手段である。

この方法を三木室内管弦楽団の演奏会の場で実践した。シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」に創作童話「ソフィーの不思議な旅」をつけ、各楽章の前にその楽章に相当するお話の部分の朗読を挿入した。この童話は本来のシューベルトの4番とは全く関係のない話ではあるが、音楽の流れにはぴったりの物語であり、話を聞くと音楽がそのように聞こえてくる。実際これは大成功で、普段なら子供たちがガヤガヤしている演奏会も、このときばかりはしーんと静まりかえり、みな集中して聞いていた。ただし、本当にシューベルトのこの曲を楽しみにしている人には不評ではあったが。。。まあ、これは極端な例であるが。。。演奏の拙さを補う方法としてもアマチュアとしては一考の価値ありだと思う。

原典版を使う難しさ


最近は「原典版」を使うのが世の流行である。Barenreiter、Breitkopf & Hartel、Henleなどの出版社は、作曲者直筆の楽譜や初演に使った印刷譜、手紙などを研究しつくして、原典版とうたって新しく出版している。これら「原典版」には一長一短がある。

その長所は、作曲者が書いたそのものに最も忠実であり、第三者による写譜のミス、印刷ミス、有名な演奏家による書き加えなどが排除されている(はず)であること。つまりその分、演奏者は作曲者の意図に近づけるのだが、はたして本当にそうであろうか。特にアマチュアにとってはどうだろうか。

聞く人のための演奏


最近仕事で、病院や老人ホームなどで臨床試験をする機会が多く、老人の介護を毎日するようになりました。老人ホームなどでは、時々ボランティアの方や、「音楽療法士」の方などが尋ねてこられ、ミニコンサート、音楽に合わせて歌を歌ったり、ゲームをしたり、いろいろと老人の健康のための活動をされています。

本当に心から、聞き手のための選曲、聞き手のための演奏をされていると思います。演奏そのものの上手下手は関係ないのです。曲によっては、涙を流して感動される方もおられます。寝たきりの方、天涯孤独の方、頭はすごく冴えていても体が言うことを聞かず自らの死が近いことを悟っている方などにとって、時に音楽は、心の奥底をゆさぶることができるのです。

主席奏者への注意

弦楽器の座席配置は、主席を先頭に上手な人から前というのが、そのパートの最大限の力を引き出すのに最も適した配置であることは明白です。下手な人の後ろに座った上手な人は、前の人に合わせるのに非常に苦労するため全ての力を発揮できなくなるからです。ただし、前に座る人には、後ろの音に常に耳を傾けることを要求しなければなりません。前に座る人は往々にして「自分がしっかり音を出さなければ」という使命感を持っています。それゆえ、後ろから音が十分に出てこない分、自分が必要以上に音を出し、パートとしてのサウンドを壊す原因になります。後ろの音に耳を傾け、自分だけではなく、パート全体としての音を作ることに時折気づかせてあげること。指揮者として重要な使命です。

ダイナミック・レンジの鍛え方

f系のダイナミックスでは、最も音の大きい人に音量バランスを合わせて行き、逆にp系では、最も音の小さい人に音量バランスを合わせて行くよう、指示を出しましょう。これによって、オケ全体のダイナミックレンジが広がっていく。ただし、それぞれの楽器によって限界があることは知っておくべきです。

指揮棒でコツコツ


指揮棒で譜面台をコツコツ叩くのは、多用してはいけません。指揮を見ない習慣がついてしまいます。どうしても必要なときは仕方ありませんが。。。叩くことが効果を発する場面はいくつかあります。一つは裏拍を感じさせるため。付点のリズムがあまいなときなどは、奏者が裏拍を感じなければならないと気づかせるために、裏拍を棒で明確に示すとか、足をならすとか、声を出すとかしましょう。休符を感じさせるときにも有効です。ワルツで2拍目を感じさせる訓練のためにも使えますが、指揮としてはかなり高度なテクニックです。もちろん、指揮者自身がきちんとリズムがとれていて、棒が正確に振れていることが前提です。

声のトーン


声のトーン、音量は非常に影響力が大きい。基本的には大きな声で話す。たとえコンマスと弓の打ち合わせをするときでも、それが合奏練習中ならば、全員に聞こえるように話しましょう。そうすることで「みんなで作っていこう」という雰囲気にプラスになります。こそこそと打ち合わせしていたなら、「前で勝手にやっているわ」と思われるのがおちです。ただ、時には小声で話すこともテクニックとして知っておくべきです。これは、ffの部分などを練習した直後、体力的にしんどくて集中力がなくなったとき、もう一度練習に集中させるのに有効です。

出番の少ない人への配慮


出番の少ない人への配慮を忘れずに。特に打楽器、金管楽器で曲の一部分にしか出番がないのが多いと思います。中間部のまったく出番のないところばかりを何10分もやっていると、これらの人は指揮者のことを「いっしょに音楽を作る仲間」とは思ってくれないでしょう。

話を聞かない人は無視する


説明したらすぐに指定した場所から曲を始める習慣をつけましょう。指揮者の話を聞いていなかった人のために繰り返し説明するのは、やめたほうがいいです。そういう人は何度か無視して練習してしまいます。そうすることによってオーケストラ全体に練習中の緊張感が高まります。そして、指揮者が演奏を止めたら、すぐに止めて話を聞き、どこからはじめるのか集中して聞くという習慣がオーケストラ全体に浸透します。

声に出して小節を数える


どこからはじめるのか小節を数えるときは、声に出して数えましょう。そうすれば指揮者自身が数えるのと同時に奏者も数えることができ、すぐにそこから曲を始められ、時間のロスがありません。つまり、自分だけ数えていきなり「Bの22小節前」と言うのではなく、「Bの前、1,2,3,4,,,,21,22小節前から」といえば、すぐにそこから始められます。ただし、指定した場所が、長い休みの途中であるパートにとっては、即座にその場所を見つけることが難しい場合もあります。それはスコアからは一目瞭然のはず。配慮を忘れずに。どうしてもその場所を見つけるのが難しいパートがあるようなら、あきらめて、その少し前の皆が明らかに見つけられる場所、例えば練習番号や繰り返し記号、GP、フェルマータなどからはじめましょう。場所を見つけるのに手間取れば、数十秒はあっというまに過ぎます。それなら、ちょっと前から開始したほうが時間の無駄はなくなります。

アマチュアの理想型

アマチュアオーケストラはごまんとあるが、私が指揮をしている三木室内管弦楽団(MCO)でこだわるのは、アマチュアの理想形である。だから「楽団の理念」をあえて作ってホームページにも掲載している。この楽団の理念は、読めば当たり前のことしか書かれてはいないが、実は奥が深い。

アマチュアの理想形は、音楽が好きで、仲間として一緒に演奏したい人すべてに門戸を開くべきである。だからMCOではオーディションは絶対にしないし、楽器の経験年数も一切問わない。楽器を始めて間もない人でも入団を断ることはない。

曲を止め説明する


曲を止めるときは、問題箇所の直後で止めること。だらだらと先まで続けてから止めて、何が悪かったのか説明しても奏者は忘れています。そして、曲を止めたら間髪を入れずに説明します。どのパートの何がどうダメだったのかを。指揮を止めても曲が止まらないことがよくありますが、止めたら間髪をいれずに説明することを繰り返すうちに、緊張感と指揮を見る習慣が身に付きます。

全体から部分へ

交響曲なら、全体から、各楽章、各楽章の中での部分、部分の中でのフレーズ、テーマ、フレーズ、テーマの中での各楽器・音の役割を奏者に理解してもらえるように練習を組み立てましょう。Tutti練習に限らず、セクション練習においてでも、指揮者が指導する以上は、常にその曲の完成された姿が指揮者の頭の中になければなりません。そしてその完成像に近づけるために細かな練習をしているのだ、ということを奏者に伝えていかなければなりません。「演奏会の目的」で指摘していることと同様、一つの音楽でもその完成像がなければ、いい結果は得られません。

交響曲は一括で全楽章練習するつもりで

練習期間後半(演奏会前2ヶ月くらい)になったら、できるだけ交響曲は一括で全楽章練習するつもりで練習に臨みましょう。ただ、一つの楽章で細かく取り組む部分に時間がかかってしまったら、全部できないかもしれません。しかし、はじめから今週は2楽章と3楽章、来週は1楽章と4楽章、と決めてしまうよりずいぶんましです。そして、2時間くらいは休憩を入れずに一気に練習をつづけましょう。ただし集中力を持続させるためには、その中の組み立ては慎重にしなければなりません。つまり、体力的にきつい部分をはじめにやって、音を出させる。そして後半にはppの繊細な部分で集中させる、あるいは、逆にはじめにそういった部分をやって、奏者の意識を自分に引き付けるとか。要するに、一つの楽章の練習を50分と決めてしまわずに、交響曲全体を2時間かもう少し時間をかけて、全体を通しながら練習するということが大切です。そのほうが時間的に効率的です。奏者も、一度のチャンスにかけるという意気込みで真剣に演奏してくれます。

100%の自信を持つ

楽器の奏法に関することに言及するときは、100%の自信を持って言わなければなりません。弦楽器を弾いたことのない指揮者が「弦のことはよくわかりませんが、もっと早い弓で弾いてください」などというのをよく聞きます。管楽器のわからない指揮者が管のブレスのことをとやかく言うのも聞きます。これらの場合、「よくわからないのだが」という前置きをしてしまっては、そこを練習中に指摘し、時間をとって練習する意味が全く失われます。誰も指揮者の言うことを真剣にやってやろうとは思ってはいません。自信のないことは、言わないこと。言う必要があるときは、コンサートマスターや信頼できる管楽器奏者の言葉を借りましょう。つまり、どういうイメージの音が欲しい、だからどうやったらいいのか、弓使いやブレスの仕方をどうしたらいいのか、その人たちに決めてもらいましょう。自分でそこまで言及したいのなら、自分の専門でない楽器を練習する不断の努力が必要です。

全員に対して公平であれ

指揮者は奏者全員に対して公平でなければなりません。上手な奏者に対してはそれなりに高度な要求を、そして初心者に対してはそれなりの要求をしなければなりません。レベルの低い奏者のレベルを引き上げ、全体の質を高めようというのは、オーケストラの士気の高揚、チームとしての一体感を作るうえで、マイナスに働くことはあってもプラスに働くことはおそらくありません。奏者一人一人の向上心を信じてあげることがリーダーとしての基本です。

常に要求し続ける

常により高度な要求を。奏者がさらえている部分だけを練習していたのでは、それは練習のペースを奏者に握られてしまっていることになります。つねに奏者をリードするため、さらえていない部分もどんどん弾かせるようにしましょう。そして、弾けている部分は、具体的にどう弾いてほしいのか、また、音楽的に表情をつけられている部分は、さらに細かい要求や、高次元の精神面の要求をするとか、また、指揮に頼らずにできるだけ奏者自身でアンサンブルしてもらうような技術面での要求など、常により高度な要求をしつづけましょう。要求すべきことが見つからなくなったら、それ以上指揮台に立つべきではありません。

全員が上達を感じとれるように

毎回の練習で少なくとも一個所、全員が「ここは練習前よりよくなった」と感じとれるようにしなければなりません。それが次への励みになるからです。また一つのパートや個人に対してでも、「できるようになった。」「言われたとおりにやれば、違う音が出るようになった。」などと気づかせる、感動させることが大切です。毎回そういう機会をつくるのは難しいですが、たまにそういうことがあれば、普段「ダメだ」「練習しておいて下さい」ばかり言われていても、信頼されることにつながります。

ビジョンを示す

指揮者は、どういった演奏会にしようとしているのか、どういうふうに音楽を描いているのか、そういったビジョンを示さなければなりません。そしてそのビジョンに対して、曲の仕上がり具合がどの程度なのかを皆に語り伝えることが常に必要です。それが一人一人のやる気の原動力となるからです。

2011/08/25

指揮棒について


指揮法の本はいろいろあるが、指揮棒の選び方について広く解説されているものには出会ったことが無い。もちろん音楽大学の指揮専攻コースなどではきちんと教えられているようであるが。もちろん私も、この点に関しては誰かから習ったわけでも本で読んだわけでもない。20年余りの自らの試行錯誤経験、プロ・アマ多くの指揮者との交流を通じて得た経験・情報に基づいてまとめてみたいと思う。

右の写真はこれまで私が使ってきた指揮棒である。上から順に、高校生のとき吹奏楽の指揮者として初めて購入した木製のもの(先端が5cmほど折れたがそのまま削りなおして使っていた)。大学オケで使っていたピックボーイの38cmグラスファイバーで一度コルクをはずしたが、再度ホームセンターで購入したコルク玉をつけたもの。市民オケなどで使っていたピックボーイの45cmグラスファイバー二本。次が、シンシナティの楽譜屋でみつけた木製のもののコルクをつけかえたもの。フルオケを振るにはバランス的に一番良い。一番下が、現在三木室内管弦楽団で使用している私のお気に入り、ホームセンターで購入した工作用の丸棒の残り、41cmという長さはたまたまその長さが残っていたというだけである。

指揮棒を持つか持たないか
指揮棒の選び方
指揮棒(番外編)

指揮棒の選び方

いきなりこのページに来た方、もしまだでしたらまずは「指揮棒を持つか持たないか」を読んでほしい。

では、指揮棒を持つと決めたならどういう棒を選ぶべきか。長さ、太さ、材質、色、握り部分の大きさや形や材質などいろいろとあるが、最も重要なことは重心位置である。ただし、これが最も理想的だという重心位置はない。それは、指揮者の技量や音楽的成熟度などによって決まってくると思っている。

指揮棒を持つか持たないか


これは非常に重要な選択であるが、多くのアマチュア学生指揮者が、明確な理由なしに「指揮棒は必要」と決め付けているようである(自分もそうではあったが)。指揮棒を持つ目的は何か。指揮者から遠い位置にいる奏者に明確に意思を伝えるためには、ある程度の大きさの図形を空中に描かなければならない。そのためには、人間の腕の長さでは不十分であるから、棒を持ってその長さを延長しているのである。。。というのが教科書的解説であるが、それは理由の一面にすぎない。あの小澤征爾は、マーラーだろうがブルックナーだろうが、ほとんど棒を持っていないではないか。真の理由は、「棒を持たないと図形を大きく描かなくてはならず体力的にしんどい」ということだ。棒を持たないで、奏者が自分の指先に注目してもらえるほうが、棒を持つよりよっぽど表現の幅は大きくなる。つまり持つか持たないかは、スタイルの違い、好みの問題である。

では、アマチュアの指揮者として棒を持つべきか、持たないべきか、どう判断するべきだろうか。まず第一に言えることは、「斉藤メソッドでいう叩きのできない指揮者は棒を持つべきではない」ということ。叩きができないということは、素手でさえも明確なテンポを表現できないということであるから、その動きを拡大する指揮棒の先端は完全にコントロール不能状態である。ここで指揮法について詳しく述べるつもりはないが、指揮棒を持つならば、自分でその先端の動きを感じ、先端で拍を感じなければならない。握りの部分で拍を感じているようでは、先端はコントロールされていない。これは頭ではわかっていても、なかなか難しいことである。軽く握っているだけのときも含め、レガート、アクセント、スタカートなどの様々な振り方で、先端に無駄な振動や揺れがないか、自分の棒の先端をよく観察してみるべきである。自分が指揮棒をコントロールできているかどうかの簡単な確認方法は、指揮の見方をよく心得ている楽器奏者数名に、自分の指揮を見てもらって手拍子をしてもらうことだ。手を見る人と棒の先端を見る人にグループ分けして手を叩いてもらえばすぐにわかる。これができなければ指揮棒を持つなと言っているわけではない。なぜなら指揮棒が良くないかもしれないからである。ただ言える事は、その状態では指揮者としては失格であるということである。

指揮棒を持つと決めたなら、次はこちら「指揮棒の選び方」をどうぞ。

叩きは自由落下ではない


斉藤秀雄の「指揮法教程」は、おそらく日本で最も重要と考えられている指揮の教科書ではないかと思う。小澤征爾氏や秋山和慶氏など、多くの名指揮者を育てた。

私も大学では代々の先輩から「この本で勉強しろ」と言われ、初めの1年はひたすら「叩き」の練習をしたものだ。この叩き、理論的には、腕を自由落下運動させ、打点で瞬間的に跳ね上げる、いわゆる重力による等加速度運動である。

2011/05/15

CDの聞き方

アマチュア音楽家が、自分の演奏しようとしている曲のプロオーケストラのCD録音を聞くことには賛否両論があるように思う。聞くと真似になってしまってオリジナルを考えるきっかけを見失うから絶対に聞くべきでないという意見。逆にアマチュアだからプロの録音を聞いて大いに参考にすべきという意見。私は、両意見とも極端であり、どちらが正しいとは一概に言えないと考えている。どちらも正しい点を含んでおり、どちらも間違った点を含んでいると考えている。

外国の文化を理解する

文化とは何でしょうか。食べ物、言葉、宗教、音楽、ものの考え方、権利、物事への反応、ものの見方、価値観、社会普遍、アイデンティティ、歴史、行動パターン、などなどいろいろとあります。文化を大洋の小島にたとえると、、、、
  • 海面上に出て見えている部分にあたるのが、食べ物、言葉、宗教、音楽、歴史、な行動パターンなど目に見えるもの。
  • 海面下の見えない部分にあたるのが、ものの考え方、権利、物事への反応、ものの見方、価値観、社会普遍、アイデンティティなど、目に見えないが、目に見える海面上の部分の土台となっているものです。
自分の属する文化は自分にとっては、自分の中にある海面下の部分、つまり文化的根本の上に、海面上の部分がしっかりと乗っている状態です。つまり子供から大人へ成長するにした がって、下から上へと身についていくものです。これに対して、異文化に接するということは、逆にこれを上から下へと理解して行くということです。つまり、言葉や宗教、音楽、食べ物などの明らかなもの、つまり海面上に出ている分が目に入ってくるということです。しかしその土台となる異文化の人のものの考え方や価値観などを理解するには、海面下を探っていかなければなりません。これは非常に時間と努力を要する作業です。

つまり異国の文化の上に成り立っているクラシック音楽を演奏するということは、音楽をやるということに加えて、より難しいその根元の部分を理解しなければ、本物にはなりえません。

しかし、現実的に学生の間にこういった経験をすることは不可能に近いと思われますので、いくつかそれに近い方法をここに挙げます:
  • 食べ物を食べる。
  • 風景写真やビデオを見る。
  • 旅行に行った人の話を聞く。あるいはベストなのはその国からの留学生などとお友達になる。
  • 物事のとらえかたの違いを理解する。これには、世界的な大きな事件などについての記事や評論を、インターネットでその国の新聞を読んで、日本の新聞と比較するとか、言葉を勉強して、表現方法、ニュアンスの違いを知るとかの方法があるでしょう。
  • なによりも一番いいのは、たった数日でもその国に行くことです。その国の空気を肌で感じ、地面を足で感じ、食べ物を食べ、言葉を聞き、人々の表情、生活を感じることです。
私は実際、テキサス(メキシコのとなりで人口の半分以上はメキシコ系でスペイン語人口が半分以上)に1年おり、メキシコの音楽、さらにはラテン音楽全般、またアメリカのオーケストラの演奏するドボルザークとかが好きになりました。それ以前は全くきらっていたのですが。

関連トピック:Cultural Identify

クラシック音楽を演奏するということ

クラシック音楽を演奏するということは、どういうことでしょうか。音楽という芸術は、作曲家が残した楽譜をもとに、作曲家が伝えたかったメッセージを、作曲家にかわって音として表現し、聞いてもらうことです。絵画にたとえるなら、画家が残したデッサンに絵の具を塗っていくこと。これには画家の人生やその時代背景、文化、環境などを知る必要があります。考古学にたとえるなら、土器の破片からその器全体を再現し、そこからその時代の人々の生活を想像することです。一つの土器の破片だけではなにもできません。音楽も同じです。楽譜だけでは何もできないのです。

西洋のクラシック音楽を演奏することと、現代のポップスをやることを比較してみることで、二つの大きな違いに気づくはずです。つまり、過去の音楽であるということと、他国の音楽であるということです。

過去の音楽であるということは、作曲当時、どのような音楽が流行っていたのか、そしてその地域の文化的、政治的環境はどうであったのか。そしてその作曲家はなぜそのとき、その曲を作ったのか。それを自分なりに解釈しなければなりません。作曲家が描いていただろう音楽の姿、つまりテンポであったり、響きであったり、そういったものが楽譜として記録されている。それを再現するのがクラシック演奏者の使命である、というのが現代(1980年台以降)の合意事項である。ところが、私はここに素人が陥りやすい落とし穴があると思う。現代に生きる我々、聴衆は、いろんな音楽の洪水の中に生きている。その感覚でクラシックを聞いている。そしてクラシック音楽に期待している。それは決して作曲当時の聴衆が期待していたものとは同じではないはずである。カール・ベームの時代のウィーンフィルが大好きな私でも、アメリカに1年住んで、毎日ラジオでアメリカのオーケストラの演奏を聞いているだけで、ウィーンフィルを聞くと「なんて輝きのない音だろうか」と思ってしまう。つまり自分の価値観も環境に左右されている。だから大切なことは、自分が何を表現し、何を伝えたいのかという確固たる意思、そしてそれが聴衆の期待に合致するということだと思う。

他国の音楽であるという観点からは、「外国の文化(異文化)を理解する」でくわしく述べる。それに先立ってここでは、日本人が気をつけなくてはならない項目とその遺伝的原因について、代表的なものを挙げてみた。日本人に生まれた宿命と思って、努力しなければならない事項である。

3拍子
日本人はとにかく3拍目と次の1拍目のあいだに余分な隙間ができやすい。自分が思っているより前へ前へ引っ張られるくらいでちょうどよい。私も自信を持って3拍子の曲をオーケストラに向かって指導できるようになるまでに、大学で指揮をはじめてから5年くらいはかかったと思う。また後輩たちや、他のオーケストラの練習にかかわって、いかに3拍子が難しいかということも痛感している。メヌエットやスケルツォでさえも、かなり神経をつかって拍を均等にしなければならないのが日本人の宿命である。ワルツはそれに大きく輪をかけて難しい。特に、1拍目を担当するコントラバスの音の立ち上がりが悪いと、すべてが遅れ気味の重たい音楽にしかならない。化学オーケストラのスプリングコンサート2004ではすばらしいベース弾きの仲間にめぐまれ、本番前日のリハーサルにおいて、ベースと指揮者で引っ張っていくコツを体得させていただいた。日本人は田んぼを耕していたリズムがDNAに宿っている。だから盆踊りは初めて踊っても誰でもさまになる。馬に乗って獲物を追っていた人とはもっているDNAが違うのである。


西洋音楽において頭は大切である。音の頭、つまり発音、フレーズの頭、つまり最初の音、または最初のひとかたまりの音符群、などなど。ラテン、ゲルマン系の言葉は必ず主語ではじまる。そして「私が」なのか「あなたが」なのかという主語は彼らの感覚では非常に重要だ。そして、修飾語はあとに連なる。一方日本語は、主語は省略されることが多いし、最後まで聞かないと肯定なのか否定なのか、未来形か現在形か過去形かさえもわからない。つまり最後まで聞いてからその一文を理解している。言葉を理解する脳の回路がそもそも欧米人とは異なっている。だから<>というクレッシェンド、ディミニュエンドがあると、日本人は真ん中を大切に演奏する。それは間違いではないが、始まりは重要なのである。それは欧米人の感覚では敢えてアクセントやテヌートを書く必要のないものであり、日本人にとっては、アクセントなどを敢えて楽譜に書き込んだほうが、正しい表現にしやすい。例としてベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章のリズムをあげる。左が木管、右が弦であるが、どちらも弱拍にsfが記されている。だからといって1拍目を2拍目より弱く演奏すると大間違いである。1拍目は1拍目本来の使命がある。ゆえに1st violinsのスタカートは日本人にわかりやすく説明するなら、非常に短いアクセントといったほうが正しい音が出てくる。同様に木管の1拍目の、前からスラーあるいはタイのかかった8分音符もアクセントである。