2011/05/15

CDの聞き方

アマチュア音楽家が、自分の演奏しようとしている曲のプロオーケストラのCD録音を聞くことには賛否両論があるように思う。聞くと真似になってしまってオリジナルを考えるきっかけを見失うから絶対に聞くべきでないという意見。逆にアマチュアだからプロの録音を聞いて大いに参考にすべきという意見。私は、両意見とも極端であり、どちらが正しいとは一概に言えないと考えている。どちらも正しい点を含んでおり、どちらも間違った点を含んでいると考えている。

外国の文化を理解する

文化とは何でしょうか。食べ物、言葉、宗教、音楽、ものの考え方、権利、物事への反応、ものの見方、価値観、社会普遍、アイデンティティ、歴史、行動パターン、などなどいろいろとあります。文化を大洋の小島にたとえると、、、、
  • 海面上に出て見えている部分にあたるのが、食べ物、言葉、宗教、音楽、歴史、な行動パターンなど目に見えるもの。
  • 海面下の見えない部分にあたるのが、ものの考え方、権利、物事への反応、ものの見方、価値観、社会普遍、アイデンティティなど、目に見えないが、目に見える海面上の部分の土台となっているものです。
自分の属する文化は自分にとっては、自分の中にある海面下の部分、つまり文化的根本の上に、海面上の部分がしっかりと乗っている状態です。つまり子供から大人へ成長するにした がって、下から上へと身についていくものです。これに対して、異文化に接するということは、逆にこれを上から下へと理解して行くということです。つまり、言葉や宗教、音楽、食べ物などの明らかなもの、つまり海面上に出ている分が目に入ってくるということです。しかしその土台となる異文化の人のものの考え方や価値観などを理解するには、海面下を探っていかなければなりません。これは非常に時間と努力を要する作業です。

つまり異国の文化の上に成り立っているクラシック音楽を演奏するということは、音楽をやるということに加えて、より難しいその根元の部分を理解しなければ、本物にはなりえません。

しかし、現実的に学生の間にこういった経験をすることは不可能に近いと思われますので、いくつかそれに近い方法をここに挙げます:
  • 食べ物を食べる。
  • 風景写真やビデオを見る。
  • 旅行に行った人の話を聞く。あるいはベストなのはその国からの留学生などとお友達になる。
  • 物事のとらえかたの違いを理解する。これには、世界的な大きな事件などについての記事や評論を、インターネットでその国の新聞を読んで、日本の新聞と比較するとか、言葉を勉強して、表現方法、ニュアンスの違いを知るとかの方法があるでしょう。
  • なによりも一番いいのは、たった数日でもその国に行くことです。その国の空気を肌で感じ、地面を足で感じ、食べ物を食べ、言葉を聞き、人々の表情、生活を感じることです。
私は実際、テキサス(メキシコのとなりで人口の半分以上はメキシコ系でスペイン語人口が半分以上)に1年おり、メキシコの音楽、さらにはラテン音楽全般、またアメリカのオーケストラの演奏するドボルザークとかが好きになりました。それ以前は全くきらっていたのですが。

関連トピック:Cultural Identify

クラシック音楽を演奏するということ

クラシック音楽を演奏するということは、どういうことでしょうか。音楽という芸術は、作曲家が残した楽譜をもとに、作曲家が伝えたかったメッセージを、作曲家にかわって音として表現し、聞いてもらうことです。絵画にたとえるなら、画家が残したデッサンに絵の具を塗っていくこと。これには画家の人生やその時代背景、文化、環境などを知る必要があります。考古学にたとえるなら、土器の破片からその器全体を再現し、そこからその時代の人々の生活を想像することです。一つの土器の破片だけではなにもできません。音楽も同じです。楽譜だけでは何もできないのです。

西洋のクラシック音楽を演奏することと、現代のポップスをやることを比較してみることで、二つの大きな違いに気づくはずです。つまり、過去の音楽であるということと、他国の音楽であるということです。

過去の音楽であるということは、作曲当時、どのような音楽が流行っていたのか、そしてその地域の文化的、政治的環境はどうであったのか。そしてその作曲家はなぜそのとき、その曲を作ったのか。それを自分なりに解釈しなければなりません。作曲家が描いていただろう音楽の姿、つまりテンポであったり、響きであったり、そういったものが楽譜として記録されている。それを再現するのがクラシック演奏者の使命である、というのが現代(1980年台以降)の合意事項である。ところが、私はここに素人が陥りやすい落とし穴があると思う。現代に生きる我々、聴衆は、いろんな音楽の洪水の中に生きている。その感覚でクラシックを聞いている。そしてクラシック音楽に期待している。それは決して作曲当時の聴衆が期待していたものとは同じではないはずである。カール・ベームの時代のウィーンフィルが大好きな私でも、アメリカに1年住んで、毎日ラジオでアメリカのオーケストラの演奏を聞いているだけで、ウィーンフィルを聞くと「なんて輝きのない音だろうか」と思ってしまう。つまり自分の価値観も環境に左右されている。だから大切なことは、自分が何を表現し、何を伝えたいのかという確固たる意思、そしてそれが聴衆の期待に合致するということだと思う。

他国の音楽であるという観点からは、「外国の文化(異文化)を理解する」でくわしく述べる。それに先立ってここでは、日本人が気をつけなくてはならない項目とその遺伝的原因について、代表的なものを挙げてみた。日本人に生まれた宿命と思って、努力しなければならない事項である。

3拍子
日本人はとにかく3拍目と次の1拍目のあいだに余分な隙間ができやすい。自分が思っているより前へ前へ引っ張られるくらいでちょうどよい。私も自信を持って3拍子の曲をオーケストラに向かって指導できるようになるまでに、大学で指揮をはじめてから5年くらいはかかったと思う。また後輩たちや、他のオーケストラの練習にかかわって、いかに3拍子が難しいかということも痛感している。メヌエットやスケルツォでさえも、かなり神経をつかって拍を均等にしなければならないのが日本人の宿命である。ワルツはそれに大きく輪をかけて難しい。特に、1拍目を担当するコントラバスの音の立ち上がりが悪いと、すべてが遅れ気味の重たい音楽にしかならない。化学オーケストラのスプリングコンサート2004ではすばらしいベース弾きの仲間にめぐまれ、本番前日のリハーサルにおいて、ベースと指揮者で引っ張っていくコツを体得させていただいた。日本人は田んぼを耕していたリズムがDNAに宿っている。だから盆踊りは初めて踊っても誰でもさまになる。馬に乗って獲物を追っていた人とはもっているDNAが違うのである。


西洋音楽において頭は大切である。音の頭、つまり発音、フレーズの頭、つまり最初の音、または最初のひとかたまりの音符群、などなど。ラテン、ゲルマン系の言葉は必ず主語ではじまる。そして「私が」なのか「あなたが」なのかという主語は彼らの感覚では非常に重要だ。そして、修飾語はあとに連なる。一方日本語は、主語は省略されることが多いし、最後まで聞かないと肯定なのか否定なのか、未来形か現在形か過去形かさえもわからない。つまり最後まで聞いてからその一文を理解している。言葉を理解する脳の回路がそもそも欧米人とは異なっている。だから<>というクレッシェンド、ディミニュエンドがあると、日本人は真ん中を大切に演奏する。それは間違いではないが、始まりは重要なのである。それは欧米人の感覚では敢えてアクセントやテヌートを書く必要のないものであり、日本人にとっては、アクセントなどを敢えて楽譜に書き込んだほうが、正しい表現にしやすい。例としてベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章のリズムをあげる。左が木管、右が弦であるが、どちらも弱拍にsfが記されている。だからといって1拍目を2拍目より弱く演奏すると大間違いである。1拍目は1拍目本来の使命がある。ゆえに1st violinsのスタカートは日本人にわかりやすく説明するなら、非常に短いアクセントといったほうが正しい音が出てくる。同様に木管の1拍目の、前からスラーあるいはタイのかかった8分音符もアクセントである。