2011/08/26

心の奥底をえぐりだそう

名曲はいつ生まれるのか。詩を考えてみればわかる。人は、幸せであるとき、それに気づかず、なんとなく生きている。自分が幸せでないと思ったとき、つまり失恋や別れに直面したとき、自分を深く見つめ、自分の心の真底まで深く掘り下げ、血のにじむほどに中身をえぐりだし、それを見つめなおし、過去を振り返る中で、いろんな気持ちになったことを思い出し、反省したり、後悔したり、泣いたり、将来の自分の姿に思いをめぐらせ、期待したり、興奮したり。そういうふうに、深く重く考えて、心と頭の中を整理するとき、はじめて聞くものの心に届く詩が生まれるのではないだろうか。だから、幸せを描いた詩は数少なく、失恋や別れの詩が世に多く存在する。そして、それらが人に感動を与えるのは、それを作った人が、本当に悩みぬいたから、そしてそれを美しい言葉や旋律で解決しようとするからだ。

絶対音楽と物語


一般的に、絶対音楽とは、音を組み立てて音楽をつくることを目的とした音楽で、表題音楽とは、風景、人物、物語や作曲者の人生における出来事を音で表現しようとする音楽、と考えられている。絶対音楽の例として、多くの副題のない交響曲やソナタなど、そして表題音楽の例としては、ベルリオーズの幻想交響曲、リムスキー=コルサコフのシェヘラザードなどがあげられる。そして、多くの人が、絶対音楽には、表題音楽のような物語性を持たすべきではなく、音楽そのものの形式美や、音楽そのものの芸術性を追求すべきと思っているのではないだろうか。これは、ある意味において正しいが、それだけが絶対音楽を演奏するにおいての考え方ではない。私はここで、あえて提唱するが、物語性のない交響曲や、極端な話バッハの無伴奏ソナタなどの絶対音楽にも、演奏者なりの物語をこじつけて音楽にしたらよい。その理由として、
  • 絶対音楽を絶対音楽として演奏することは、まずもって小難しく漠然としすぎているということ。
  • 聞く方もそれなりの絶対音楽、音楽史などの知識、そして様式美をわかる知識とセンスが必要であること。
  • 我々現代人が日常聴く音楽は、ポップス・歌謡曲なども含めて、ほとんどがロマン派的表題音楽の部類に含まれており、そういった音楽のほうが理解しやすく、より現代人の心に響く。(皆が好きなベートーヴェンは古典派だが、人気のある後期の交響曲はすでにロマン派に入っている。)
  • バッハやモーツァルト、ヴィヴァルディといえども、人間である以上、ロマン的感情はあるはずで、そういった感情が彼らの音楽に反映されていないとは、誰も断定できない
などがあげられる。

しかしもっと大事なことは、演奏者(指揮者と奏者)自身が、具体的に何かを表現しようとして、一体何を表現するのかということ。演奏者各人が、自分なりに交響曲全体で何を言いたいのか、伝えたいのか、頭の中で、あるいは心の中で明確になっているか。絶対音楽的形式美などは、古典派や多くのロマン派の曲を演奏するにおいて、指揮者としては理解しておく必要はあると思うが、それだけで演奏者として自ら納得できる演奏にはなり得ないと私は思う。特にアマチュアである以上、自分たちが選んだ曲を自分たちなりに表現する自由がある。それがアマチュア音楽の醍醐味でもあるはずだ。ベートーヴェンを音楽学的に研究することが目的ではないはずで、そういったことはすでに多くの研究者が行っており、ベーレンライターの新原典版などの楽譜の校正などに反映されている。そして私達はそれを使うことができる。

私はあえて提案するが、演奏する曲、特に長い交響曲に具体的な映像となる人生経験における特定の場面、テレビで見た風景などをあてはめてほしい。できれば一曲全体を一つの物語とするのが望ましい。それは作曲者の伝記から読み取った作曲者の人生でもかまわないし、自分の人生におけることでもかまわない。指揮者なら、自分の心にその物語を秘めておき、それを軸に音楽を組み立てれば、奏者が納得のゆく、音楽的リーダーシップ発揮の助けになるはずだ。物語を話として奏者に伝えずとも、具体性のある物語であれば、自ずとそれが軸となり、長い長い交響曲に一本の筋が通って均整のとれた音楽となる。しかし、漠然とした物語では説得力のある音楽作りの助けにはなり得ない。

私の高校のブラスバンドでは夏のコンクールで演奏する曲につける物語を部員全員が各自考え、発表し、皆が納得する物語を皆で選んだ。その時を境に、音楽が一つにまとまったのを今でもはっきりと覚えている。

音楽に物語をもたせることは、音楽の一つの側面である「自己表現」を上手にするための一つの手段である。また何事にも目的を明確にするということからも、有用な手段である。

この方法を三木室内管弦楽団の演奏会の場で実践した。シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」に創作童話「ソフィーの不思議な旅」をつけ、各楽章の前にその楽章に相当するお話の部分の朗読を挿入した。この童話は本来のシューベルトの4番とは全く関係のない話ではあるが、音楽の流れにはぴったりの物語であり、話を聞くと音楽がそのように聞こえてくる。実際これは大成功で、普段なら子供たちがガヤガヤしている演奏会も、このときばかりはしーんと静まりかえり、みな集中して聞いていた。ただし、本当にシューベルトのこの曲を楽しみにしている人には不評ではあったが。。。まあ、これは極端な例であるが。。。演奏の拙さを補う方法としてもアマチュアとしては一考の価値ありだと思う。

原典版を使う難しさ


最近は「原典版」を使うのが世の流行である。Barenreiter、Breitkopf & Hartel、Henleなどの出版社は、作曲者直筆の楽譜や初演に使った印刷譜、手紙などを研究しつくして、原典版とうたって新しく出版している。これら「原典版」には一長一短がある。

その長所は、作曲者が書いたそのものに最も忠実であり、第三者による写譜のミス、印刷ミス、有名な演奏家による書き加えなどが排除されている(はず)であること。つまりその分、演奏者は作曲者の意図に近づけるのだが、はたして本当にそうであろうか。特にアマチュアにとってはどうだろうか。

聞く人のための演奏


最近仕事で、病院や老人ホームなどで臨床試験をする機会が多く、老人の介護を毎日するようになりました。老人ホームなどでは、時々ボランティアの方や、「音楽療法士」の方などが尋ねてこられ、ミニコンサート、音楽に合わせて歌を歌ったり、ゲームをしたり、いろいろと老人の健康のための活動をされています。

本当に心から、聞き手のための選曲、聞き手のための演奏をされていると思います。演奏そのものの上手下手は関係ないのです。曲によっては、涙を流して感動される方もおられます。寝たきりの方、天涯孤独の方、頭はすごく冴えていても体が言うことを聞かず自らの死が近いことを悟っている方などにとって、時に音楽は、心の奥底をゆさぶることができるのです。

主席奏者への注意

弦楽器の座席配置は、主席を先頭に上手な人から前というのが、そのパートの最大限の力を引き出すのに最も適した配置であることは明白です。下手な人の後ろに座った上手な人は、前の人に合わせるのに非常に苦労するため全ての力を発揮できなくなるからです。ただし、前に座る人には、後ろの音に常に耳を傾けることを要求しなければなりません。前に座る人は往々にして「自分がしっかり音を出さなければ」という使命感を持っています。それゆえ、後ろから音が十分に出てこない分、自分が必要以上に音を出し、パートとしてのサウンドを壊す原因になります。後ろの音に耳を傾け、自分だけではなく、パート全体としての音を作ることに時折気づかせてあげること。指揮者として重要な使命です。

ダイナミック・レンジの鍛え方

f系のダイナミックスでは、最も音の大きい人に音量バランスを合わせて行き、逆にp系では、最も音の小さい人に音量バランスを合わせて行くよう、指示を出しましょう。これによって、オケ全体のダイナミックレンジが広がっていく。ただし、それぞれの楽器によって限界があることは知っておくべきです。

指揮棒でコツコツ


指揮棒で譜面台をコツコツ叩くのは、多用してはいけません。指揮を見ない習慣がついてしまいます。どうしても必要なときは仕方ありませんが。。。叩くことが効果を発する場面はいくつかあります。一つは裏拍を感じさせるため。付点のリズムがあまいなときなどは、奏者が裏拍を感じなければならないと気づかせるために、裏拍を棒で明確に示すとか、足をならすとか、声を出すとかしましょう。休符を感じさせるときにも有効です。ワルツで2拍目を感じさせる訓練のためにも使えますが、指揮としてはかなり高度なテクニックです。もちろん、指揮者自身がきちんとリズムがとれていて、棒が正確に振れていることが前提です。

声のトーン


声のトーン、音量は非常に影響力が大きい。基本的には大きな声で話す。たとえコンマスと弓の打ち合わせをするときでも、それが合奏練習中ならば、全員に聞こえるように話しましょう。そうすることで「みんなで作っていこう」という雰囲気にプラスになります。こそこそと打ち合わせしていたなら、「前で勝手にやっているわ」と思われるのがおちです。ただ、時には小声で話すこともテクニックとして知っておくべきです。これは、ffの部分などを練習した直後、体力的にしんどくて集中力がなくなったとき、もう一度練習に集中させるのに有効です。

出番の少ない人への配慮


出番の少ない人への配慮を忘れずに。特に打楽器、金管楽器で曲の一部分にしか出番がないのが多いと思います。中間部のまったく出番のないところばかりを何10分もやっていると、これらの人は指揮者のことを「いっしょに音楽を作る仲間」とは思ってくれないでしょう。

話を聞かない人は無視する


説明したらすぐに指定した場所から曲を始める習慣をつけましょう。指揮者の話を聞いていなかった人のために繰り返し説明するのは、やめたほうがいいです。そういう人は何度か無視して練習してしまいます。そうすることによってオーケストラ全体に練習中の緊張感が高まります。そして、指揮者が演奏を止めたら、すぐに止めて話を聞き、どこからはじめるのか集中して聞くという習慣がオーケストラ全体に浸透します。

声に出して小節を数える


どこからはじめるのか小節を数えるときは、声に出して数えましょう。そうすれば指揮者自身が数えるのと同時に奏者も数えることができ、すぐにそこから曲を始められ、時間のロスがありません。つまり、自分だけ数えていきなり「Bの22小節前」と言うのではなく、「Bの前、1,2,3,4,,,,21,22小節前から」といえば、すぐにそこから始められます。ただし、指定した場所が、長い休みの途中であるパートにとっては、即座にその場所を見つけることが難しい場合もあります。それはスコアからは一目瞭然のはず。配慮を忘れずに。どうしてもその場所を見つけるのが難しいパートがあるようなら、あきらめて、その少し前の皆が明らかに見つけられる場所、例えば練習番号や繰り返し記号、GP、フェルマータなどからはじめましょう。場所を見つけるのに手間取れば、数十秒はあっというまに過ぎます。それなら、ちょっと前から開始したほうが時間の無駄はなくなります。

アマチュアの理想型

アマチュアオーケストラはごまんとあるが、私が指揮をしている三木室内管弦楽団(MCO)でこだわるのは、アマチュアの理想形である。だから「楽団の理念」をあえて作ってホームページにも掲載している。この楽団の理念は、読めば当たり前のことしか書かれてはいないが、実は奥が深い。

アマチュアの理想形は、音楽が好きで、仲間として一緒に演奏したい人すべてに門戸を開くべきである。だからMCOではオーディションは絶対にしないし、楽器の経験年数も一切問わない。楽器を始めて間もない人でも入団を断ることはない。

曲を止め説明する


曲を止めるときは、問題箇所の直後で止めること。だらだらと先まで続けてから止めて、何が悪かったのか説明しても奏者は忘れています。そして、曲を止めたら間髪を入れずに説明します。どのパートの何がどうダメだったのかを。指揮を止めても曲が止まらないことがよくありますが、止めたら間髪をいれずに説明することを繰り返すうちに、緊張感と指揮を見る習慣が身に付きます。

全体から部分へ

交響曲なら、全体から、各楽章、各楽章の中での部分、部分の中でのフレーズ、テーマ、フレーズ、テーマの中での各楽器・音の役割を奏者に理解してもらえるように練習を組み立てましょう。Tutti練習に限らず、セクション練習においてでも、指揮者が指導する以上は、常にその曲の完成された姿が指揮者の頭の中になければなりません。そしてその完成像に近づけるために細かな練習をしているのだ、ということを奏者に伝えていかなければなりません。「演奏会の目的」で指摘していることと同様、一つの音楽でもその完成像がなければ、いい結果は得られません。

交響曲は一括で全楽章練習するつもりで

練習期間後半(演奏会前2ヶ月くらい)になったら、できるだけ交響曲は一括で全楽章練習するつもりで練習に臨みましょう。ただ、一つの楽章で細かく取り組む部分に時間がかかってしまったら、全部できないかもしれません。しかし、はじめから今週は2楽章と3楽章、来週は1楽章と4楽章、と決めてしまうよりずいぶんましです。そして、2時間くらいは休憩を入れずに一気に練習をつづけましょう。ただし集中力を持続させるためには、その中の組み立ては慎重にしなければなりません。つまり、体力的にきつい部分をはじめにやって、音を出させる。そして後半にはppの繊細な部分で集中させる、あるいは、逆にはじめにそういった部分をやって、奏者の意識を自分に引き付けるとか。要するに、一つの楽章の練習を50分と決めてしまわずに、交響曲全体を2時間かもう少し時間をかけて、全体を通しながら練習するということが大切です。そのほうが時間的に効率的です。奏者も、一度のチャンスにかけるという意気込みで真剣に演奏してくれます。

100%の自信を持つ

楽器の奏法に関することに言及するときは、100%の自信を持って言わなければなりません。弦楽器を弾いたことのない指揮者が「弦のことはよくわかりませんが、もっと早い弓で弾いてください」などというのをよく聞きます。管楽器のわからない指揮者が管のブレスのことをとやかく言うのも聞きます。これらの場合、「よくわからないのだが」という前置きをしてしまっては、そこを練習中に指摘し、時間をとって練習する意味が全く失われます。誰も指揮者の言うことを真剣にやってやろうとは思ってはいません。自信のないことは、言わないこと。言う必要があるときは、コンサートマスターや信頼できる管楽器奏者の言葉を借りましょう。つまり、どういうイメージの音が欲しい、だからどうやったらいいのか、弓使いやブレスの仕方をどうしたらいいのか、その人たちに決めてもらいましょう。自分でそこまで言及したいのなら、自分の専門でない楽器を練習する不断の努力が必要です。

全員に対して公平であれ

指揮者は奏者全員に対して公平でなければなりません。上手な奏者に対してはそれなりに高度な要求を、そして初心者に対してはそれなりの要求をしなければなりません。レベルの低い奏者のレベルを引き上げ、全体の質を高めようというのは、オーケストラの士気の高揚、チームとしての一体感を作るうえで、マイナスに働くことはあってもプラスに働くことはおそらくありません。奏者一人一人の向上心を信じてあげることがリーダーとしての基本です。

常に要求し続ける

常により高度な要求を。奏者がさらえている部分だけを練習していたのでは、それは練習のペースを奏者に握られてしまっていることになります。つねに奏者をリードするため、さらえていない部分もどんどん弾かせるようにしましょう。そして、弾けている部分は、具体的にどう弾いてほしいのか、また、音楽的に表情をつけられている部分は、さらに細かい要求や、高次元の精神面の要求をするとか、また、指揮に頼らずにできるだけ奏者自身でアンサンブルしてもらうような技術面での要求など、常により高度な要求をしつづけましょう。要求すべきことが見つからなくなったら、それ以上指揮台に立つべきではありません。

全員が上達を感じとれるように

毎回の練習で少なくとも一個所、全員が「ここは練習前よりよくなった」と感じとれるようにしなければなりません。それが次への励みになるからです。また一つのパートや個人に対してでも、「できるようになった。」「言われたとおりにやれば、違う音が出るようになった。」などと気づかせる、感動させることが大切です。毎回そういう機会をつくるのは難しいですが、たまにそういうことがあれば、普段「ダメだ」「練習しておいて下さい」ばかり言われていても、信頼されることにつながります。

ビジョンを示す

指揮者は、どういった演奏会にしようとしているのか、どういうふうに音楽を描いているのか、そういったビジョンを示さなければなりません。そしてそのビジョンに対して、曲の仕上がり具合がどの程度なのかを皆に語り伝えることが常に必要です。それが一人一人のやる気の原動力となるからです。

2011/08/25

指揮棒について


指揮法の本はいろいろあるが、指揮棒の選び方について広く解説されているものには出会ったことが無い。もちろん音楽大学の指揮専攻コースなどではきちんと教えられているようであるが。もちろん私も、この点に関しては誰かから習ったわけでも本で読んだわけでもない。20年余りの自らの試行錯誤経験、プロ・アマ多くの指揮者との交流を通じて得た経験・情報に基づいてまとめてみたいと思う。

右の写真はこれまで私が使ってきた指揮棒である。上から順に、高校生のとき吹奏楽の指揮者として初めて購入した木製のもの(先端が5cmほど折れたがそのまま削りなおして使っていた)。大学オケで使っていたピックボーイの38cmグラスファイバーで一度コルクをはずしたが、再度ホームセンターで購入したコルク玉をつけたもの。市民オケなどで使っていたピックボーイの45cmグラスファイバー二本。次が、シンシナティの楽譜屋でみつけた木製のもののコルクをつけかえたもの。フルオケを振るにはバランス的に一番良い。一番下が、現在三木室内管弦楽団で使用している私のお気に入り、ホームセンターで購入した工作用の丸棒の残り、41cmという長さはたまたまその長さが残っていたというだけである。

指揮棒を持つか持たないか
指揮棒の選び方
指揮棒(番外編)

指揮棒の選び方

いきなりこのページに来た方、もしまだでしたらまずは「指揮棒を持つか持たないか」を読んでほしい。

では、指揮棒を持つと決めたならどういう棒を選ぶべきか。長さ、太さ、材質、色、握り部分の大きさや形や材質などいろいろとあるが、最も重要なことは重心位置である。ただし、これが最も理想的だという重心位置はない。それは、指揮者の技量や音楽的成熟度などによって決まってくると思っている。

指揮棒を持つか持たないか


これは非常に重要な選択であるが、多くのアマチュア学生指揮者が、明確な理由なしに「指揮棒は必要」と決め付けているようである(自分もそうではあったが)。指揮棒を持つ目的は何か。指揮者から遠い位置にいる奏者に明確に意思を伝えるためには、ある程度の大きさの図形を空中に描かなければならない。そのためには、人間の腕の長さでは不十分であるから、棒を持ってその長さを延長しているのである。。。というのが教科書的解説であるが、それは理由の一面にすぎない。あの小澤征爾は、マーラーだろうがブルックナーだろうが、ほとんど棒を持っていないではないか。真の理由は、「棒を持たないと図形を大きく描かなくてはならず体力的にしんどい」ということだ。棒を持たないで、奏者が自分の指先に注目してもらえるほうが、棒を持つよりよっぽど表現の幅は大きくなる。つまり持つか持たないかは、スタイルの違い、好みの問題である。

では、アマチュアの指揮者として棒を持つべきか、持たないべきか、どう判断するべきだろうか。まず第一に言えることは、「斉藤メソッドでいう叩きのできない指揮者は棒を持つべきではない」ということ。叩きができないということは、素手でさえも明確なテンポを表現できないということであるから、その動きを拡大する指揮棒の先端は完全にコントロール不能状態である。ここで指揮法について詳しく述べるつもりはないが、指揮棒を持つならば、自分でその先端の動きを感じ、先端で拍を感じなければならない。握りの部分で拍を感じているようでは、先端はコントロールされていない。これは頭ではわかっていても、なかなか難しいことである。軽く握っているだけのときも含め、レガート、アクセント、スタカートなどの様々な振り方で、先端に無駄な振動や揺れがないか、自分の棒の先端をよく観察してみるべきである。自分が指揮棒をコントロールできているかどうかの簡単な確認方法は、指揮の見方をよく心得ている楽器奏者数名に、自分の指揮を見てもらって手拍子をしてもらうことだ。手を見る人と棒の先端を見る人にグループ分けして手を叩いてもらえばすぐにわかる。これができなければ指揮棒を持つなと言っているわけではない。なぜなら指揮棒が良くないかもしれないからである。ただ言える事は、その状態では指揮者としては失格であるということである。

指揮棒を持つと決めたなら、次はこちら「指揮棒の選び方」をどうぞ。

叩きは自由落下ではない


斉藤秀雄の「指揮法教程」は、おそらく日本で最も重要と考えられている指揮の教科書ではないかと思う。小澤征爾氏や秋山和慶氏など、多くの名指揮者を育てた。

私も大学では代々の先輩から「この本で勉強しろ」と言われ、初めの1年はひたすら「叩き」の練習をしたものだ。この叩き、理論的には、腕を自由落下運動させ、打点で瞬間的に跳ね上げる、いわゆる重力による等加速度運動である。