2013/12/28

多言語環境

日本ではやっと、低学年からの英語教育の重要性や、国際バカロレア教育の価値などが評価されてきているようである。これはこれで良いことだ。私個人的には、これまでの英語教育の間違い(私なんかはその犠牲者の一人)は、明治維新でやりのこした最も重要な国際化のアイテムだ。

さて日本の外に目を向けるとどうか、今朝の新聞 The Straits Times には面白い記事が二つあった。一つは、中国では今後英語は必要ないと考えられはじめている記事[1]。教育省は2017年以降、英語を必須科目から削除することも示唆している。もはや世界では中国語を話す人口のほうが英語人口より多い[2]。ネイティブスピーカーの人口で見てみてもやはり中国語の方が英語より多い[3]。だから英語の習得に時間を割くよりもたの学問に時間を費やした方がいい、ということも一理あるだろう。しかし、これからの世界で中国語が国際共通語になりうるか、といわれればその可能性は限りなくゼロに近いだろう。巨大になった中国は、英語ができなくても国際的に孤立することはないと考えているのだろう。

もう一つの記事は、世界では数多くの言語が消えていっているという統計[4]。その理由は、それぞれの国の標準語化によって、地方の部族の言葉が消滅していっているということなのだそうだ。若者は学校で共通語を習う。そして都会に出て行く。村に残った部族の長老たちの寿命が、その言語の絶滅をも意味する。この記事が指摘しているのは、多言語を習得している人は、文化的器が大きいということ。つまり他の文化を受け入れ、相手を理解する能力に長けているということ。

面白いのは、国連安全保障理事会の常任理事国はどれも単一言語国家だし、G8の各国も単一言語国家だ。だからお互いの価値観の違いという言葉にならない部分を理解できなくて、重要なことを決められないのではないか。しかし人類の歴史を見ると多言語環境というのが大部分だ。隣村に行くと言葉が違ってわからない。だけど理解しようと努力する。

そういえば世界共通で英語より習得しやすくそれぞれの文化を犠牲にしなくてよいといわれるエスペラント語というのもあるが、それぞれの文化や価値観というのは言語と背中合わせの部分があるので、どうかと思う。ユーザーは世界でもまだまだ少ないようだ。

つまり、多言語を操るということは、違う文化を理解する上で非常に重要だ、ということが言いたかった。音楽をやる上では、重要この上ない。私もドイツ語、イタリア語、フランス語など勉強すべきと思っている。。。が実際に使える環境にいなければ習得は難しい。。。という私は目下、中国語を勉強中(といってもちょっとやりはじめたところ)。難しいです。

Reference
[1] English fever cools in post-Olympic China, The Straits Times, Sat, Dec 28, 2013
[2] M. Paul Lewis, Gary F. Simons, and Charles D. Fennig, eds. (2013). Summary by language size, Ethnologue, 17th edition.
[3] List of languages by number of native speakers, Wikipedia
[4] Bringing dying languages back to life, The Straits Times, Sat, Dec 28, 2013