2016/12/17

演奏会とは何か?~マーケティングの観点から

マーケティングを非常にシンプルに説明すると、顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその商品を効果的に得られるようにする活動[1]、となるであろう。マーケティングにおける最も重要なデーターは、顧客理解である。しかし、芸術の世界であるクラシック音楽、ましてやアマチュアオーケストラとなると、この点においては、非常に心もとない。せいぜい会場でアンケートをとるくらいではないだろうか。あなたはオーケストラ活動において、顧客の要望を直接聞いたことがあるだろうか?演奏会のプログラム(つまりあなたの商品)をどうやって決めているだろうか?だいぶ以前に「演奏会とは何か?」というタイトルで説明したが、ここではマーケティングという視点からまとめなおしてみた。

Singapore Lean Startup Circleでの「スタートアップにおけるマーケティング」というテーマでの討論会で発表させていただいた内容を元に日本語で書いてみた。

私は会社での仕事の経験(私は研究開発所属であるが)から、自分が指揮者であったオーケストラ(三木室内管弦楽団)のマーケティングをかなり重要視していた。チケットを有料にしていない演奏会であっても、人様に時間を割いて来てもらうには、楽しんで感動して帰っていただく、というそれなりの責任があり、それが自分たちの存在意義に跳ね返ってくるという点においては、アマチュアだろうが無料だろうが、ビジネスと同じであると見ていたからである。結果を先に書けば、2001年に私が入団した当初は、ほぼ初心者ばかりの5人しか練習に集まらないオーケストラであったが、2011年にはブラームスの交響曲が演奏でき、プロのソリストが協力してくれる、常に満員御礼の演奏会ができるオーケストラに育った。これはもちろん楽団員とともに作り上げた努力の結果であるし、私のやり方に賛成できずに離れていった人もいるのは事実であるが、私がリーダーとして何をどう考え、何をしてきたかを、マーケティングという観点でまとめてみた(これまでにまとめて全てを説明したことはなかったので)。


  1. 競合他団体との差別化
  2. 顧客調査
  3. 観客の体験
  4. 音楽を演奏する者の姿勢
  5. マーケットサイズとリピーター


1. 競合他団体との差別化

自分の商品を他社のものと差別化するのは、ビジネスの世界では当たり前だが、ことアマチュアの世界となると軽視されがちである。

1.1. まずは、近隣の他のオーケストラからの差別化。後期バロックから古典派、初期ロマン派に的を絞った。これらの時代の音楽は、CDなどは非常に多数出回っていて人気があるが、アマチュア音楽界においては演奏される機会が少ない。この差別化によって、まずこの分野の作品を演奏したいと思っていた技術レベルの高い奏者を獲得することができた。他のアマチュアオーケストラが古典やバロックに的を絞れない理由は明白で、どのオーケストラも必要以上にオーケストラが巨大になり、チャイコフスキーなど金管楽器の出番のある曲を演奏しなければ、金管奏者を納得させられない、というジレンマに陥っていた。三木室内はそうならないため、オーケストラが成長し始め、定員枠制度を設けたときにはトロンボーンの入団は認めていなかったし、ホルンも4名定員としていた。

1.2. 差別化の二点目は、協奏曲をほぼ毎回のプログラムに取り入れること。アマチュアオーケストラで協奏曲を演奏する機会はなかなかない。協奏曲には名曲が多いがなかなか演奏されない。だからこそそこを重視し、協奏曲を毎回のプログラムの目玉に持ってくるという意味ももたせた。ホームページでは常にソリスト募集を掲げ、応募のあった方とは直接私がお会いし、こちらの音楽的レベルや演奏会に対するビジョンなどを理解していただくところから始めた。最終的には2004年以降7年にまたいで、多くのプロの方にソリストとしてご協力いただけたことは、私としても驚きで、本当に感謝している。

2. 顧客調査

2.1. 量的調査
アマチュア楽団では、観客にアンケート用紙に記入してもらうことは一般的に行われている。しかし問題は、その提出をお客の好意だけに頼っているので、偏った意見を聞くことになる。つまり演奏会を良いと思った人の意見を主に聞くことになる。日本では、悪いと思った意見をわざわざ書く人は少ない。つまりアンケートの結果を読んでも自己満足の域を出ていない。意味のある量的調査をするにはやはり統計的手法が必要となる。簡単な方法は、入り口で無作為に10人毎に用紙と鉛筆を渡して、ぜひ記入してもらうように口頭でお願いする。配布した枚数の90%以上を回収できれば、かなり信頼度の高いデータが得られる。もちろんデータ解析には統計的知識は必要である。この調査で私が見つけたことは、演奏会そのものが良かったと思ってくれていても、次も来るかどうかという質問では、その点数が非常に低くなるという事実であった。つまり、「非常に良かった」と評価してもらっても、「次も来たい」にはつながっていない。ということはこの人にとってのその日の演奏会は、「次にわざわざ来るほどの価値」はないとも考えられる。つまり次は来てくれないと思っておいた方がいい。

2.2. 質的調査
さて、これらは量的調査。これでは何パーセントの人がどう思ったのかという、数値は出てくるが、それが実際に何を意味するのかという部分では片手落ちであり、やはり質的調査が必須である。私がやっていたのは、演奏会の始まる前、ホールの前でお客さんを迎え、彼らの表情を見て、話しかける。彼らがどう期待して来たのか、それとも通りがかりでたまたま入って来たのか、あるいは、時間つぶしのために来たのか、そういったことがわかる。もちろん、楽団員の知り合いかどうか、まったくの他人なのか、などもわかる場合がほとんどである。そして演奏会が終わったら、真っ先にホール出口に行き、お客さんにお礼を言う。そうすれば感想も聞けるし、彼らがどれだけ感動したのか、あるいはがっかりしたのか、何が良かったのか、という素直な意見も聞けるし言葉には出てこない部分でもいろんなところが見えてくる。次のコンサートを期待してくれているのか、何を期待してくれているのかもわかる。こういった顧客理解と、量的調査の両方によって、何をすべきかということが見えてくる。

3. 観客の体験

これらの調査から、三木室内管弦楽団で私が重視したのは、私たちのお客様の多くが、一般のクラシック音楽になじみのない、しかしオーケストラに興味のある人々であったので、彼らにクラシック音楽をちゃんと理解してもらって楽しんでもらう、ということであった。だからプログラムや楽曲、作曲家の生涯や時代背景、文化的違いなどの部分を聞く前に理解を深めてもらうよう、ステージの上で話しをした。これがなければ、クラシックになじみのない一般の客(団員に知り合いがいない客)にとって、そんなに上手でもないオーケストラが演奏する30分以上の交響曲を聞いてもらうことはなかなか難しいのではないかと思っていた。つまり、演奏会という時間の中で、いかに記憶に残る体験(楽しかった、感動したなど)をしていただくか、ということに重点を置いた。良い音楽を演奏するという「こちら側」の視点から「お客様の体験」という「あちら側」に軸足を移したのである。その理由はこうだ。差別化にもう一度もどるが、日曜の午後、あるいは土曜の夜の時間を割いてまで演奏会に来ていただくということは、お客さんは、それぞれの週末の時間の使い方の選択肢の中で、演奏会を選んでくれたということ。週末の過ごし方は、何も一に音楽ありきではない。家の用事もあるし、他のレジャーもある。クラシックが好きならば何もヘタクソなアマチュアを聞きにこなくても、家でCDでも聞いていればいい。そういう選択肢のなかから我々の演奏会に来てもらったということは、どういうことか、ということをよく理解しておかなければならない。つまり、他の選択肢(つまり競合相手)より自分たちの演奏会が魅力的で時間を費やす価値がなければならない。だから自分たちにできること、つまり来てもらっている時間を楽しんでいただくためにはどうするか、というその答えが、ステージ上での解説であった。もちろんこのアイデアは、アンケート調査や演奏会後のお客様とのコミュニケーションからでてきたものである。

ちなみに、これらに気づく以前は、観客の体験を無視した「こちら側」のアイデアで、仮説から始める実験的手法で演奏会の企画をしていた。発想は「他のオーケストラでやらないこと」であった。例えば、オリジナル童話付きのシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」の目的は、いかに子どもに楽しんでもらうかであった。「悲劇的」とはまったく関係のない童話を各楽章の前にナレーションを入れた。驚くほど子どもたちは静かに最後まで聞いてくれた。しかしながら、クラシックファンからはやはり批判的な意見がアンケートには見られた。ヨーロッパ遊覧飛行というタイトルで、ヨーロッパ各地の音楽の違いをわかってもらおうというような「教育的」プログラムもやった。Love Story(詩と音楽でつづる愛情物語)というタイトルを全面に出し、オーケストラの演奏会というのを小さく印字したこともあった。いずれも仮説からスタートしたやり方で、それらの広告によって多くの観客に来ていただいたわけではなかったので、私個人としては成功とは思えなかった。

4. 音楽を演奏する者の姿勢

最終的に私が重視したのは、演奏会の定義とそれの楽団員への徹底であった。音楽には、いろいろな使途がある。図を見てもらいたい。横軸に「誰のため」をとり、縦軸に「何を重視」するかをとると、4つに分類できる。



左下はいわゆる学校の音楽会や音楽教室の発表会である。演奏者は自分がどこまできちんと演奏できるかということが重要であり、顧客も音楽を楽しむことより、自分の子どもなどがステージ上でミスなく、格好よく演奏できるているかということに興味がある。音楽そのものは言ってみれば二の次だ。次に、右下のボックスはいわゆるコンクールで、ここでは音楽の質が勝負であるが、審査員の耳に認められないといけない。少なくとも審査員という観客のために演奏はしている。もちろん他の観客にいい音楽を提供しようとしているのだが、あくまでも質が勝負の場所だ。3番目に、左上のボックスは体験重視と書いてあるが、つまりこれは演奏者本人がどれだけその時間、その場所を楽しんでいるかという「体験」が最重要であって、観客が音楽を楽しんでいるかあるいは感動したかは無関係。これはいわゆるカラオケの世界だ。二次会でカラオケに行っても楽しんでいるのは歌っている本人(と他数名)であり、多くは、自分が何を歌うか曲を探しているか、わいわいがやがやしゃべっているかである。コンサートとは、お客様に音楽を楽しんで感動してもらう場所なのである。あくまでもお客様のためという意識でなければならない。音楽は芸術である。芸術は自己表現である。だからまずは自己満足がないといけないという主張がある。それは確かにそうである。しかしそれは最低限のレベルであって、それが最終目標であっては、演奏会に来てくれるお客さんに音楽は伝わらない。アマチュアオーケストラでよく問題になるのが、左上の部分がアマチュアとしてやっている目的だと主張するグループと右下だと主張するグループの対立である。どちらも悪いとは言わないが、この一般的な対立の解決方法は右上の解を提示する以外にないし、それが最高の結果をもたらすはずなのである。

さて、お客様に感動していただくには、まず自分がその音楽にのめりこんで感動しなければならない。また、音楽を伝えようという意識があるかないかで、音楽が伝わるか伝わらないかは大きく違う。私は科学者であるから、こういった事実は体験していても、自信をもって言うことができなかった。しかし、最近の研究結果[2]では、感情は空気を伝播するということがわかっている。被験者の脇の下にガーゼをあてておき、映画を見せる。怖い映画、悲しい映画など。そして、その脇からの分泌物の臭いを他人ににおわせると、その人がどういう感情であったのかということが、ほぼわかるようである。フェロモン様物質がいくつかわかってきているが、まだまだ謎は多い。集団心理というが、怒りの気持ちは周りの人に伝播する、デモが暴徒化するのは、これが原因でないかとも考えられているようだ。この研究を知ってから、私は自信をもって、奏者の気持ちと目的意識次第で、お客さんに音楽に感動してもらえるかどうかの結果は違ってくる、と言えるようになった。

5. マーケットサイズとリピーター

最後にマーケティングで大切な観点、マーケットサイズとリピート率について論じてみる。つまりそのオーケストラの潜在顧客は何人かということ、繰り返し演奏会に足を運んでもらうことがいかに重要かということ。例えば三木にとってみれば、あの地域(三木市プラス周辺)の人口をまあ10万人としよう(かなりラフに四捨五入しているが、それはあまり問題ではない)。この中の1パーセントがクラシック音楽が好きな人などの潜在的顧客としよう。つまり1000人だ。まだ三木のオケに大した集客力がなかったころ、100人のお客さんに来てもらって、まあ満足してもらえたとする。しかし「まあ、よかった。暇つぶしができた」と思ってもらう程度では、次の演奏会に足を運んでもらうことはないだろう。実際に、この当時のアンケートでは、初めて三木の演奏会に来たという人が大半であった。これはどういうことか、一度来てくれた人は、そのときはそこそこ良かったと思ってくれても、「次も来たい」にはつながっていない。つまり「このオーケストラはこの程度だからもういい」という意味と考えられる。数字で言えば、1000人の潜在的顧客のパイの中から、毎回の演奏会で100人づつ失っていったということだ。10回これを繰り返せば、潜在的顧客はもういなくなるということだ。だから、感動してもらって、「次の演奏会にも絶対に来る」と思ってもらうことが重要なのだ。そして、ここまで思ってくれた人は大抵「次は友達、家族をつれてきます」と言ってくれる。これは私が実際に演奏会の直後、ホールの出口で、お客さんと話していての実際のデータである。結論として、演奏会は、心に残る良い体験をしてもらって次に顧客が増えるか、そうではなく潜在的顧客のパイを食い尽くしていくか、のどちらかである、ということだ。だとすれば、結果として何を目標にしなければならないのか明白である。一つの演奏会が良かったと思ってもらうだけでは不十分で、次の演奏会に来たいと思ってもらって初めて一つの演奏会の成功と言える。


[1] Definition of Marketing, American Marketing Association
[2] Deborah Blum, “The Scent of Your Thoughts”, Scientific American, Oct. 2011, p38-41

2016/11/26

指揮棒の選び方

いきなりこのページに来た方、もしまだでしたらまずは「 指揮棒を持つか持たないか」を読んでほしい。

では、指揮棒を持つと決めたならどういう棒を選ぶべきか。長さ、太さ、材質、色、握り部分の大きさや形や材質などいろいろとあるが、最も重要なことは重心位置である。ただし、これが最も理想的だという重心位置はない。それは、指揮者の技量や音楽的成熟度などによって決まってくると思っている。

概して、経験の浅いアマチュアの学生指揮者や若い指揮者は、重心位置がなるべく握り位置に近い棒を持つのが良い。なぜならば、そうすることによって、単純に手や腕の動きが拡大されるだけで、指揮棒に振り回されることがないからである。重心が握り位置より先端側に遠ければ遠いほど、文字通り指揮棒に振り回される、つまりは棒の先端をコントロールできないという羽目になる。私自身大学3年のときには、ピックボーイの38cmグラスファイバーのコルクを取ったものの根元に、ゴルフクラブのヘッドに貼るバランス用鉛テープを巻いて、握ったときに丁度人差し指の上で釣り合うようにしていた。もう一点これの良い点は、グラスファイバーの軽すぎる棒をかなり重くできることである。こうすることで、指先や握りで指揮棒だけをコントロールすることは難しくはなるが、見やすい指揮になることは間違いない。一つ注意しておきたいのは、ピックボーイのカーボングラファイトに握り部分がローズフッドやエボニーなどの比重の高い木を使ったもの。これらのほとんどが、重心が握り位置より後ろ側になる。「高級品」を自負する以外、指揮棒としての実用性はゼロである。

技術的・音楽的成熟度から、こういった重心位置の棒での表現力に限界を感じるようになれば、普通に市販されているバランスのものを使える段階である。ただし、ここで注意しておくべきことは、やはりグラスファイバーやカーボングラファイトのものは軽すぎる。耐久性はあるのだが。おすすめはやはり木製で、ある程度の重さのあるものがよい。軽すぎるものは、棒の重みに任せた先端のコントロールがしづらい。ある程度重いものであれば、訓練を要するが、棒の重みに任せた表現が可能となる。これは弦楽器で、弓の重みに任せて音を出すのとまったく同じ原理である。決して棒の先端をコントロールしようとして強く握ってはいけない。棒の先端が自ら図形を動くかのごとく軽く握るべきで、それでもコントロールできる重さとバランスが大切である。ここでも、握り部分が木製のものはあまり推奨できない。やはりコルクのほうがバランス的に良い。下の写真でバランス位置を示した。

一つ目が45cm木製、重心が先端に近く、棒の重みを利用した指揮ができるが、コントロールは難しい。私もしばらく練習をサボっていると使いこなせない。


そういうときは次の45cmグラスファイバー製を使う。重心がやや握り位置に近いし、おまけに軽い。


最後が41cm木の丸棒で、普段室内楽の指揮に使用しているもの。ごらんの通り重心は中央であるが、重くもなく軽くもなく、非常に使いやすい。


指揮棒の長さについては、これはもう好みの問題である。傾向としては、小編成の室内楽などでは短い棒のほうが良く、大編成になれば長い棒のほうが良い。私の場合、フルオケを振るときは45cm、室内楽では38cmから41cmくらいであるが、私の使う長さはどちらかというと長いほうである。

最終的には私の指揮棒は村松の39.2cm(実測)に落ち着いた。フルオケでも室内楽でもこれが最もしっくりと来るようになって以来、同じモデルを何本も指揮棒ケースに入れて持ち歩いている。というのも、木製の棒は、指揮台に当たったりして簡単に折れるからだ。

指揮棒の太さについては、ある程度の太さがあったほうが奏者の側からは見やすい。グラスファイバーやカーボングラファイト製は細くて見づらい。この理由からもやはり木製のほうが好ましい。

握り部分の材質については、何度も指摘しているがやはりコルクに限る。木製のものは概してバランスがよくない。握り部分の大きさと形については、好みの問題ではあるが、余り大きく長いものは人差し指の第一間接に乗せたときに邪魔になる傾向があるので気をつけたほうが良い。自分の親指の長さ・太さ程度のものが使いやすい。球状のものはコルクを指先で握って棒の先端をコントロールするには向いているが、これはかなり高度なテクニックを要する。プロの指揮者でもこれをやる人は、私の知る範囲では二人しかいない。
指揮棒の色は、もちろん白が良いが、気をつけなくてはならないのが。奏者から見た背景である。つまり指揮者の着ている服の色、後ろの壁の色、あるいは窓から外が見えるならその背景の色、明るさである。私の出身大学のプレハブの第二音楽室は指揮者の背中側に窓越しに運動場が見え、グラスファイバーの白い指揮棒なんかは、管楽器からはほとんど見えない。

2016/11/05

指揮棒を持つか持たないか

これは非常に重要な選択であるが、多くのアマチュア学生指揮者が、明確な理由なしに「指揮棒は必要」と決め付けているようである(自分もそうではあったが)。指揮棒を持つ目的は何か。指揮者から遠い位置にいる奏者に明確に意思を伝えるためには、ある程度の大きさの図形を空中に描かなければならない。そのためには、人間の腕の長さでは不十分であるから、棒を持ってその長さを延長しているのである。。。というのが教科書的解説であるが、それは理由の一面にすぎない。あの小澤征爾は、マーラーだろうがブルックナーだろうが、ほとんど棒を持っていないではないか。真の理由は、「棒を持たないと図形を大きく描かなくてはならず体力的にしんどい」ということだ。棒を持たないで、奏者が自分の指先に注目してもらえるほうが、棒を持つよりよっぽど表現の幅は大きくなる。つまり持つか持たないかは、スタイルの違い、好みの問題である。

では、アマチュアの指揮者として棒を持つべきか、持たないべきか、どう判断するべきだろうか。まず第一に言えることは、「斉藤メソッドでいう叩きのできない指揮者は棒を持つべきではない」ということ。叩きができないということは、素手でさえも明確なテンポを表現できないということであるから、その動きを拡大する指揮棒の先端は完全にコントロール不能状態である。ここで指揮法について詳しく述べるつもりはないが、指揮棒を持つならば、自分でその先端の動きを感じ、先端で拍を感じなければならない。握りの部分で拍を感じているようでは、先端はコントロールされていない。これは頭ではわかっていても、なかなか難しいことである。軽く握っているだけのときも含め、レガート、アクセント、スタカートなどの様々な振り方で、先端に無駄な振動や揺れがないか、自分の棒の先端をよく観察してみるべきである。自分が指揮棒をコントロールできているかどうかの簡単な確認方法は、指揮の見方をよく心得ている楽器奏者数名に、自分の指揮を見てもらって手拍子をしてもらうことだ。手を見る人と棒の先端を見る人にグループ分けして手を叩いてもらえばすぐにわかる。これができなければ指揮棒を持つなと言っているわけではない。なぜなら指揮棒が良くないかもしれないからである。ただ言える事は、その状態では指揮者としては失格であるということである。

2016/04/29

音楽の流れに任せる

ベルナルト・ハイティンクのマスタークラスにて、「指揮者は常に前に立って音楽に介入するのではなく、音楽がそれ自体でうまく流れているときは、演奏者を信頼して彼らと一緒に呼吸をし音楽とともに進むべき」ことを学んだとのこと。まさにその通りです。
私は大学3年の最後にこれに気づかせていただいた。そしてそれ以降の人生が音楽以外でも大きく変わった、と思えます。



2016/04/11

続・楽譜とは

作曲というプロセス、つまり音楽を楽譜というかたちで残すことは、作曲家の心の表現であるアナログデータを、音符というデジタル情報で記録するということ。つまりその過程には、重大な情報の欠落があるというkとに気づかなければならない。一方、楽譜を見て演奏するということは、デジタルデータを人間の心に響くアナログ情報に変換するということ。したがって楽譜に書かれていないことを如何に再現するかということに、本来もっと時間と努力を払うべきであり、楽譜に書いてあることはあくまでも指標であり、「楽譜どおり演奏する」ことは演奏家として最低限必要なことである。

楽譜とは


画家は作品を直接鑑賞者に見せることができます。陶芸家は見てもらうと同時に触れてもらうこともできますし、使用してもらうこともできます。これらの物体としての作品を通して、作者は作品の意図、主義主張等を永久的に形にとどめることができます。もちろん、作品を見せるということは、作品表面で反射されてくる光を人間の目が感じ取ることですから、それを展示する場所の光線の具合で、ある程度は変化します。だから美術館などはそのことに十分神経をつかっています。

これに対して、音楽家は音楽を通して自分の意図、主義主張等を永久的にとどめることは、録音を除いてはありません。ですから、録音という技術ができる以前は、楽譜が「意図を人に伝える」という意味で重要な役割をはたしていました。もちろん録音が可能な現代でも、奏者に音楽の骨組みを伝えるという意味で楽譜は重要です。しかし完璧ではありません。マーラーや近代の作曲家は、楽譜に多くの言葉を用いて様々のパートに指示をしています。ブラームスをはじめ多くの作曲家が、発明された直後の録音技術を用いて、自作自演の録音を残しています。これらは、自らが表現しそれを人に伝えたいという、芸術家ならだれもがもっている願望のあらわれだと思います。つまり、作曲は自分の書いた楽譜だけで、後世に自分の音楽を残すことに物足りなさを感じていたと思います。だから楽譜だけに頼って演奏していたのでは、良い音楽は生まれてきません。

さらに、特に金管楽器について、昔は演奏不能であった音をどう処理するかという問題もあります。最近は原典主義とでもいいましょうか、作曲家が残した自筆譜に忠実に演奏するのがトレンドですが、一昔前まではたとえばベートーヴェンなどの2nd Trpなどで昔は低くて出せなかった音を吹かせるなんてことが当たり前でした。あるいは、モーツアルトが当時音程が不確かなため嫌っていたフルートを加えて木管楽器全体の割り振りをかえてしまうとか。私はあえて楽譜に手を加えることへの賛否をここでは表明しません。が、こういったことを考えることは作曲家の気持ちになって考えてみるという意味で大切なことです。

楽譜は考古学に喩えるなら、貴重な土器の破片です。指揮者と奏者全員が元々一つであった土器の破片をもっていないと、正確な古代の生活を再現することができません。つまり、全員が同じ版の楽譜を使わなければよい演奏、効果的な練習はできません。また練習番号を統一してふっておくことと、小節番号をふっておくことは常識です。繰り返しカッコの部分などは版によって小節の数え方が異なるので注意しましょう。これらの準備はオーケストラでの最低限のマナーです。

続・楽譜とは

2016/04/09

2016/04/03

天才はいない

「天才バッハ」、「神童モーツァルト」、演奏家なら「天才パガニーニ」などとよく言われるが、はたして天才とはなんであろうか。我々「凡人」は「天才」の域には達し得ないのであろうか。私は以前から、天才は努力の結果であると信じていた。それを証明するレポート[1]を見つけたので、そのキーメッセージを紹介しながら、アマチュア音楽家への適用を検討してみようと思う。

この研究は、チェスのチャンピオンの脳内での情報伝達を研究することにより、チェスだけでなくその他あらゆる分野においても、いかにしてマイスターになれるかの重要な点を明らかにしている。普通のチェス・プレーヤーとチャンピオンの脳内での神経伝達を比べると、チャンピオンの脳は活性化している部分が非常に広く、それだけ膨大な計算や、過去の経験との照合、シミュレーションなどを瞬時に行っていることがわかる。最も重要なことは、経験を積み重ねることにより、計算やシミュレーションしなければならなかったことが、過去のケースと照合することによって、ほとんど無意識に次の一手の選択ができるということである。つまりそれだけデータベースが大きく、またデータへのアクセスのしかたもデータベースとして持っている。「天才」は生まれつきではなく、脳にどれだけの信号伝達経路を構築できているかによるのである。

では、天才とまで呼ばれなくても、脳の信号伝達経路をたくさんつくり、ある分野で名を知られる程度になるためにはどうすればいいのか。それは、「人並みはずれた努力」を最低「10年」継続するということである。

人並みはずれた努力
いくつかのエキスパート理論で実証されているのだが、こういった脳内の信号伝達経路を構築するには、「人並みはずれた努力」が必要であることがわかっている。エリクソンの研究によると、もっとも重要なことは「人並みはずれた努力」、つまり常に自分の技量・能力より常に一つ上を目指すことの継続である。単なる経験、つまりどれだけ長い期間練習・勉強しているかはまったく関係がない。このことは以下の例でよくわかる。たとえば、ゴルフやテニスの初心者は非常に熱心に練習するが、ひとたびコースに出て楽しめるようになったり、仲間と試合でのラリーを楽しめる程度に達すると、ほとんどの人はそこでリラックスしてしまい、努力をやめてしまう。車の免許を取れればそれ以上に運転技量を磨こうという人はまずいない。10年以上車を運転していても、初心者のころと比べて運転技量はほとんどかわらないはずである。こうなるとそれ以上の上達はありえない。これに対し、いわゆるエキスパートやマイスターは、自らの心の扉を常に開けていて、常に自分の技量や結果を同じ分野のトップと比較観察し、自らを批評し、常に改善に対する努力をしているのである。

10年
ただ、サイモンの心理学の10年原則が示すように、ある分野でのマイスターになるには、約10年間ものすごい量の勉強や練習が不可欠である。「人並みはずれた努力」も1年や2年の短期間ではまったく意味がない。これは、大学受験で猛勉強をしても、大学に入りそして就職できてリラックスし、その「人並みはずれた努力」をやめてしまえば「人並み」で一生を終わる。また、これは子供の才能を開花させることにもあてはまり、神童と呼ばれる数学におけるガウス、音楽におけるモーツァルト、チェスにおけるボビー・フィッシャーなどは実際、幼少のころから長期間にわたり人並みはずれた量の練習や勉強を行った結果である。伝記にも記されているように、モーツァルトはとにかく幼少のころからヴァイオリンやクラヴィーアを触るのが好きで、父親や父親の音楽仲間の奏でる音楽に異常なほどの興味をもち、知らず知らずのうちに「練習」になっていた。またモーツァルトは普通の子供が興味を示す玩具や遊びにはまったく無関心でもあった。そして父親の音楽教育も熱心で厳しかった。最近の研究で、モーチベーションが素質よりもずっと重要であることもわかってきた。

音楽やスポーツの指導にあたる人たちは、才能があるかないかが重要で、才能を持った子供を見ればすぐにわかると言うが、これは生まれつき才能を持った人とそうでない人がいるという思い込みでしかないことがわかっている。普通は一度演奏を聴いただけで、その人の素質によるものなのか長年のスズキメソッドによる努力の結果なのか知る方法はない。

また、大人になってから音楽を始めたから、子供のころからやっていた人と比べると絶対に損、というのも脳神経学的に否定されている。これも、大人は子供ほど一つのことに没頭できない、時間がない、つまり「人並みはずれた努力」を「10年」もの間継続することができないから、ということで説明できる。つまり、子供のころのように没頭し努力すれば大人でも上達できるのである。アルバート・アインシュタインやカール・ベームがそれを実証している。

[1] Philip E. Ross, The Expert Mind, Scientific American Aug. 2006, p46-53

2016/03/30

説明よりは指揮で表現を

Tuttiやセクション練習は、皆が音を出す場であり、皆が練習してきたことをお互いに試す場でもあります。指揮者だけが自分のやりたいこと(トレーニングプランなど)をやる場ではありません。まずは奏者を信頼し、できるだけ曲を頭から終わりまで通すようにしましょう。はじめから、曲を止めて練習しようという心構えではいけません。20分の曲の全体を練習するのに、はじめから止めては説明し、止めては説明し、をやっていれば、あっというまに1時間程度は、経ってしまいます。

また、全体を通すときのみならず、部分の練習の場合でも常に、奏者に注意してもらいたいポイントを、まず指揮で表現しなければなりません。指揮で表現できていなければ、いくら説明しても指揮者の目指している音楽にはなり得ません。

そのためにも、普段の指揮の動作は必要以上に大きくしないこと。そして注目してもらいたいポイントだけ大きく振ればいいのです。指揮で表現したことが伝わらなければ、同じパターンが次に出てきたときには、曲を止めずに口頭で指示します。それでもだめなら、曲を止めるしかありません。しかしオーケストラ全員が指揮を見ているのに、思っているような曲にならないのは、指揮者の表現力が不足しているということにほかなりません。もちろんプロでも、曲を止めて説明はしますが。

名指揮者Sergiu Celibidacheのマスタークラスでの彼の指摘は、"You conduct. You don't explain!"です。